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2020.11.06

感染予防でヨーグルト食べる人に「欠けた」視点|日本人の「ヘルスリテラシー」はあまりに低い


急にヨーグルトを食べても健康にはなれない(写真:jazzman/PIXTA)

急にヨーグルトを食べても健康にはなれない(写真:jazzman/PIXTA)

新型コロナウイルスの感染拡大で浮かび上がった日本人の健康に関する特性とは、どのようなものでしょうか。医学博士の奥真也氏による『未来の医療年表 10年後の病気と健康のこと』から一部抜粋・再構成してお届けします。

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前回の記事では、近い将来、AIドクターによる診察が主流になること、それにつれて人間ドクターの役割が「医療を作り出す人」と「患者に寄り添う人」とに二分されることなどを述べました。

では、これに対して患者の側はどう向き合えばよいのでしょうか。これに関して私は、まったく異なる2つの方向性がありうると考えています。

前回の記事 ※外部サイトに遷移します

様変わりする医療とどう向き合うか

1つは、近未来の患者さんは医療に関して主体的に情報収集する必要もなければ、自分の健康に関する難しい選択(たとえば、リスクを伴う手術を受けるか、受けないかなど)をする必要もなくなるという方向性。要はAI医師が常に正しい知識をもとに正しい選択をしてくれるので、患者側は安心して身を委ねてさえいればいいという世界です。

もう1つありうるのは、医療技術の急激な進歩に伴って増大し、複雑化していく医療関連情報に対して患者側もある程度主体的に向き合い、能動的な情報の取捨選択をする必要に迫られるという方向性です。このどちらになるのかは私にもまだわかりません。現時点では両方の可能性が同じようにありそうに見えます。

すべての病気を克服することが医療の完成なのだとすれば、現在の医療はすでに9合目まで達している、と私は考えています。あと1合、頂上まで登りきった頃には、もしかしたら、患者さんの立場では何も考えなくて済むシステムも出来上がっているのかもしれません。

ただ9合目ということは、まだ1合分は確かに残っているということでもあります。富士登山では最後の8〜9合目で高山病にかかって下山を余儀なくされる人もかなりいるそうです。医療完成の9合目は、裏返せば医療情報の膨大化、複雑化もピークに近づきつつあるということですから、そのような状況ではヘルスリテラシーの重要性が相対的に高まっているということも言えます。

「ヘルスリテラシーとは何か」についてはさまざまな定義が存在します。デンマークの公衆衛生学者クリスティン・ソーレンセン博士は2012年に著した論文で、ヘルスリテラシーに関して以前から存在した「17の定義と12の概念モデル」について検討し、ヘルスリテラシーとは「ヘルスケア、疾病予防、健康増進という3つの領域の健康情報にアクセスし、理解し、評価し、利用できる、知識、意欲、能力のこと」であると整理しました。

博士によれば、ヘルスリテラシーを身につけることで、個人レベルの健康や生活の質の向上だけでなく、ソーシャルキャピタル(社会関係資本)の形成などにより地域全体の健康増進にも貢献できるものとされています。

インターネットの登場により、一般の人が医学関連の情報にアクセスすることは以前に比べてずっと容易になりました。ただ、医学知識に詳しい一般の人が急に増えるということには、よい面だけでなく悪い面もあります。

とくに新型コロナウイルスの流行拡大期のような非常時は典型的でした。病気や人間の身体に関する知識を医学という体系の中で理解している医師が語る言葉と、科学的根拠のあやふやな情報(たとえば、「子宮を温めると新型コロナにかかりにくくなる」など)が、同じぐらいのボリュームで話されることの弊害は決して小さくありませんでした。

日本人の低い「ヘルスリテラシー」

そして、新型コロナウイルスをめぐる狂騒を通じて図らずも浮かび上がってきてしまったのは、日本人の健康に関するリテラシーがいかに低いか、ということでした。

人間の身体がどう作られていて、どのような疾患にどのくらいなりやすいのか、といった基本的な知識が欠如しているのに、新型コロナのようなことがあったからといって、急に断片的な知識を詰め込んで防衛しようとしても、連立方程式が解けない人がいきなり微積分の難問に挑戦するようなもので、ちょっと無理があります。

ところがその無理なことを皆がこぞってやってしまうのが、まさに「急場」「有事」を感じさせる出来事でした。少々にわか勉強であっても、新型コロナウイルス対策のために学ぼうとすることはもちろんよいことだと思います。同時に、今後も出てくるかもしれないさまざまな新しい問題に備えるために、ヘルスリテラシーの向上に気長に取り組むとよいのではないでしょうか。

新型コロナの流行初期には、ビタミンCやビタミンE、あるいは乳酸菌などが免疫機能を高めるので感染予防に役立つという話が広まり、それらを含有するドリンクやヨーグルトがたいへんに売れました。

未知の感染症がこれから猛威をふるいそうだと言われれば心配になるのは誰でも同じです。少しでも役立ちそうなことなら取り入れて不安を減らしたい、というのも人間の自然な感情として理解できます。

ただ、このような火事場に直面して急にヨーグルトを食べたり、あるいはウォーキングを始めたりしたからといって、いきなり健康になることはありません。その人が持っているもともとの健康レベルを損なわないようにすることは大事ですが、今までやっていなかったことを急に始めて健康を水増しし、新型コロナにかからないようにしようというのは、いくらなんでも都合のいい虚しい努力です。

「量」の話をしよう

テレビ番組や雑誌の特集記事などを見ていつも感じるのですが、日本のメディアで扱われる健康情報はあまりに定性的にすぎる、つまり、ものごとの性質面にだけ着目しているように私には感じられます。

先ほどのビタミンCや乳酸菌の話にしても、「ビタミンが身体によい」というその性質自体はウソではないものの、その数量的な側面、つまり「どれだけ服用すればいいのか」「どのくらい身体状態が改善するのか」という定量的な視点が欠如しているのです。

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定性的な議論は、一見科学的なようで、実はそうでもありません。たとえば日本政府が1100兆円の財政赤字を解消するために、政府支出を抑えようとするのは定性的には正しい話です。しかし、そのカット額が月2000円のレベルにとどまるのであれば、100年分の合計で200万円ちょっとにしかなりません。これではまさに「焼け石に水」であり、定量的には意味のない話になってしまいます。

以前、旧厚生省は、「1日30品目食べれば健康を維持できる」として、30品目を推奨していた時期がありました。量のことを考えないならばこれは正しくて、必要な栄養素が欠けることは起こりにくくなります。しかし、これを続けているとカロリー過多になることが批判されるようになり、2000年には主張しなくなりました。量を考えることは大切、という話です。

その他の健康法についても、性質だけを捉えて「よいか悪いか」を議論するのであれば、よいものはいくらでもあります。しかしその健康法を実行することで役に立つとか立たないとか、ある物質を摂取することが健康によいかそうでもないかなどの問題を評価するためには、その健康法が健康全体に対して効果を発揮するうえで必要な大きさや数量がまず議論されなくてはいけません。もしそのサイズ感が実態にまるで即していないのであれば、結局は空論にすぎないのです。

サプリにしても、たとえば月経前症候群で体内からカルシウムが失われた女性が補充療法としてカルシウムサプリを摂取するのは十分に意味があることです。しかしその場合も、その人の症状に基づいて適量を摂取することで初めて意味をなすのです。

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提供元:感染予防でヨーグルト食べる人に「欠けた」視点|東洋経済オンライン

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