2024.06.07
高齢者定義「65歳→70歳」引き上げで起こる"困惑"|年配の人々のあり方が多様化した今、考える事
高齢者の定義が5歳引き上げられて70歳になったら……(写真:プラナ/PIXTA)
岸田総理が主宰する経済財政諮問会議で、高齢者の定義を5年引き上げ、70歳にしようという話が持ち上がりました。
高齢者への年金を減らしたい
<時代は昭和とは違う。国民の体力も大幅にアップしたし、医学は発達した。医療制度もそれに応えている。何よりも皆さん元気なのだから、高齢者の名のもと、おじいさん、おばあさん然を決め込むことはやめようよ>というあたりが表向きの趣旨の発言です。
しかるにこの話は、高齢者への年金を減らし、財源を維持したいという本音が色濃く見え隠れするものにも見なされがちです。いや、もっと露骨で、「見え隠れ」というレベルではないかもしれません。
実際、ダイレクトにそういうメッセージとして受け取った人も少なくないと思われます。
報道を見ても、「社会保障費カットの雰囲気づくり」というような表現も散見され、どうもその世代の人たちにとって、一見、単純に喜べる話には見えません。
このことは日本に限ったことではなく、2023年秋にフランスの年金受給年齢が62歳から64歳に引き上げられたときも、国を挙げて大ブーイングになりました。
一方で、高齢者が「65歳から」というのは、現代医学の水準に鑑みてみると、どうにもしっくりこないのは確かでしょう。医師から見た風景というわけでなく、皆さんから見ても、世の65歳はおおむね元気でしょう。
この機会に改めて各種の高齢者のデータをひもといてみようと思います。
昔に比べて60代はまだまだ元気
まず、元気に関して。
平均寿命はこの50年で男女とも10歳以上延伸し、男性が81.05歳、女性が87.09歳と、男女とも80歳を超えています。健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間を指す健康寿命も、同様に延伸しています。
体力に関しても文部科学省の実施する「新体力テスト」では、65歳以上の体力スコアが男女とも年齢(5年区切り)にかかわらず、この20年で10%程度増加していることが明らかにされています。
次に、WHO(世界保健機関)ですが、世界的に合意された「高齢者」を定義する年齢は存在しないとする一方、先進国では一般に65歳から高齢者としていると言明しています。
そして、高齢者の雇用にかかわる高年齢者雇用安定法。
高齢者がより長く活躍し、年金などの社会保障制度の負担も軽減するというねらいのもと、「まだ60代前半ではフルに労働できるよね、全然OKでしょ?」ということで、会社は65歳まで雇用を確保することが義務づけられ、さらには、企業努力で70歳まで仕事を続けられるようになりました。
年金の受給も65歳を基本とした制度設計になっています。
現役世代と受給者の負担バランスを改善したということではありますが、長期にわたる人口動態と、それに伴う歳出入の変化に、元来の制度が対応しきれなかったことは確かだと思われます。
このように、社会の制度や仕組みは「65歳以降を高齢者」と見なしているわけです。
しかし、そもそもの疑問として、皆さん、ご自身が「高齢者」だと見なされること、自分自身を高齢者と見なすことにそんなに嬉々としているのでしょうか。
私はそうは思わない。むしろ「高齢者? 嫌だね、そんな見られ方は」という人は多いと思うのです。
筆者の周りを見るとピンピンしている60代、70代は普通にたくさんいます。いや、80代やそれ以上の世代だって元気な人は数えきれません。筆者自身、今月には62歳になりますが、「高齢者」になる日が近いという認識はまあゼロに近いです。
ですので、いくら制度上の「高齢者」の恩恵を受けられるからといって、その世代の人が、65歳高齢者を喜んで受け入れている、と思うのは、ある意味とっても傲慢で、「お年頃」の気持ちをわかっていない(若い世代の)思いだと私は思います。
元気と制度のバランスを考えると
そのような元気と制度のバランスにおいて、制度が時代に追い付いていないことは確かだと思います。
元気で活躍できるのであれば、高齢者の定義が変わろうと別にいいじゃない、と思っている人も筆者の周りには多く、そういう人たちは今も仕事や趣味を続けています。
もちろん、病院や介護施設などに入居していたり、ご自宅に終日とどまって生活していたりする65歳や、それより年配の人がたくさんいるのもまた事実で、医療者としては当然気にかかります。
そして、65歳になったからもう働かなくていい、残りの人生を謳歌しようと夢を膨らませている人ばかりではなく、役職定年や60歳を過ぎて給料が(仕事は同じなのに)減ったり、雇用が安定しなくなったりというような悩みを抱えている65歳も少なくありません。
要は、寿命が延びて人生の持ち時間が長くなったぶんだけ、65歳や、それより年配の人々のあり方も多様化しているということなのです。
こう考えてみると、高齢者が(先送りになって)70歳スタート、ということはもっと喜ばれてもよさそうなのですが、実際にはそうではない方々も少なくなさそうではあります。
では、なぜ我々は「高齢者が70歳になる」という話を素直に喜べないのでしょうか。
それは、高齢者という節目が5年延びて70歳になったとして、そして年金の受給年齢が引き上げられたりした場合に、その5年分の生き方について、国や行政が何も示してくれないことにあるのではないでしょうか。
寿命が延びて元気ではあるけれど、収入の減少をどう補うのか、有り余る時間をどう過ごせというのか……。諮問会議の発言にはその答えとなるようなものは見られません。
そういう意味で、とても唐突で、国民としては突き放された感じの提言になっていることは否定できないのです。
社会構造の高齢化と国力の減退、そして将来収入まで予測できてしまっている国の財政のセットで「解のない数学の問題」を解こうとして、「高齢者は70歳から」という別解を持ち出したということなのだと思います。
高齢者になれない人たちはどうする?
実際問題として、高齢者の定義が5年引き上げられたら、ごく単純に考えても、5年ぶんの「やりたいこと」や「収入の確保」について考えないと、高齢者になれない「中齢者」とでもいう人たちの時間を持て余すに違いない。焦るし、その焦りは多くの「同時代を生きる人たち」が納得してくれる感覚であると思われます。
そして、ほどなく――本当にほどなく、おそらく20年も経たないうちに、われわれはあのころの感覚はまだまだ平和だった、甘かったことを思い知らされるのでしょう。
段階的に引き上げられた挙句、高齢者の定義は90歳になっていて、中齢者となった、かつての高齢者といわれていた人たちは、それでも日々を生きているのだと想像できるのです。
高速道路の逃げ水のごとく、高齢者というゴールがどんどん遠くなっていく今となっては、少なくとも制度や政治のせいにしている場合ではないのでしょう。
だから、中齢者としてできることを考えていかなければなりません。
年をとるにつれて誰しもがよくやるように(筆者自身もついやってしまうのだけれど)、「もうこれはやらなくていいかな」「新しいことを始めるのはしんどい」と、自ら行動を狭めてしまうことは有り余る時間を持て余すことになり、損だと思います。
医療者から見ても、あれこれ「やめる」ことで、外出が減り、人との交流がなくなり、思考の機会が減ってしまえば、心身のストレスを増やし、身体能力を保つことに大きくマイナスに働くので、よくありません。
外出や人との交流を減らさないことへの一歩として、億劫がらずに、見た目の若さを保つために、服装やちょっとした所作に気を付ける(イスから立つときに、「どっこいしょ」と言わないとか……)ことから始めればいいと思うのです。
前述した「高齢者呼ばわりは嫌だ」という積極的な姿勢は、これからの時代をサバイバルしていくうえで、とても重要だと思います。
今の60歳前後の人は60代では高齢者になることを(少なくとも気持ちの問題としては)進んで放棄し、「これからの10年でやることリスト」を徹底的に見直し、充実させていけばよいと思うのです。
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提供元:高齢者定義「65歳→70歳」引き上げで起こる"困惑"|東洋経済オンライン