2022.02.22
「いま何歳?」質問する人は思考停止している訳|「ライフシフト」で指摘「年齢に対する大誤解」
人生100年時代には、「何歳?」と聞かれて「×歳です」と答えるのは、一面的な見方でしかありません(写真:JackF/PIXTA)
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人生100年時代には、「何歳?」と聞かれて「×歳です」と答えるのは一面的な見方でしかないとする著者たちの主張を、『LIFE SHIFT2(ライフ・シフト2)』から抜粋・編集してお届けしよう。
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年齢に対する多様な考え方
私たちの人生のストーリーにリズムと秩序をもたらしているのは、暦の上での時間の経過だ。
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しかし、長寿化の進展に合わせて年齢に対する考え方を変えるためには、まず時間と年齢を単純に結びつける発想に終止符を打たなくてはならない。具体的には、年齢を可変性があるものと考える必要がある。
平均寿命が長くなり、健康寿命も延びれば、40歳、60歳、80歳といった年齢のもつ意味は大きく変わる。そうした年齢の可変性を前提に、人生のステージのあり方を変えていけばいい。
一見すると、「年齢」という概念は比較的単純なものに思える。小さな子どもでも、その概念は知っている。
しかし、「何歳?」と尋ねられた子どもが発する返答は、一面的なものでしかない。
「×歳です」という回答は、生まれてから現在までの年数(暦年齢)という単一の基準でしか年齢を考えていないからだ。実際には、次のような概念も存在する。
・生物学的年齢(肉体がどれくらい若いか)
・社会的年齢(社会でどのように扱われているか)
・主観的年齢(自分がどのくらい老いている、もしくは若いと感じているか)
年齢の概念が単一でないことは、「あの人は年齢の割に元気に見える」「もう立派な年齢なんだから、そんなことをしては駄目だよ」「今日は年齢を感じずにいられないよ」といった表現にもあらわれている。
年齢の可変性が高まると、これらのさまざまな年齢がますます一致しなくなる。いまの子どもたちが60歳になる頃には、生物学的年齢が暦年齢と大きく食い違うケースも多くなるだろう。自分自身をどのように見るかと、ほかの人たちからどのように見られるかの間にも、大きなズレが生じるかもしれない。
そのような時代には、暦年齢の節目を基準に人生のストーリーを形づくることができなくなる。
この新しい状況に適応することは簡単でない。これまでは、もっぱら暦年齢を基準に年齢を測り、それを土台に3ステージの人生を組み立てていたからだ。教育制度や社会慣行や政府の政策も3ステージのモデルを強化してきた。
18歳で大学に進学し、20代か30代前半で結婚し、65歳で引退することが当たり前と考えられていたのである。
もっとも、人類はつねに暦年齢を基準に行動してきたわけではない。誕生日をパーティーで祝うという習慣も、20世紀になるまで存在しなかった。人類の歴史のほとんどの期間、人々は自分の誕生日はおろか、生まれた年すら知らなかった。
19世紀に入って政府が正確な出生記録を収集するようになってはじめて、暦年齢が年齢の主たる基準になったのである。それ以降は、暦年齢が人生の基本的な時間的枠組みになった。
その結果として、ある種の数値決定論が幅を利かせるようになった。社会規範や社会の常識、人がみずからの人生についていだく想定は、生まれてから何年経ったかという数字にひも付けられるようになったのだ。
そうした数値決定論は重大な誤解を招くものであり、年齢に関する先入観を生み出し、人々がみずからの人生とほかの人たちの人生について考える際の思考の幅を狭めてしまう。
老いるとはどういうことか?
人はみな、人生のストーリーを歩むなかで、「若いとはどういうことか」「老いるとはどういうことか」について自分なりの感覚をもつようになる。
しかし、暦年齢、生物学的年齢、社会的年齢、主観的年齢の関係が変わるにつれて、老いるとはどういうことかも変わりはじめている。その変化は、老年学者たちが用いる用語にもあらわれている。
最近は、60~69歳を初老者(ヤング・オールド)、70~79歳を高齢者(オールド・オールド)、80歳以上を超高齢者(オールデスト・オールド)と呼ぶ動きがあるのだ。
しかし、老いるとはどういうことかを深く理解しようと思えば、もうひとつの尺度を採用する必要がある。その尺度とは、死生学的年齢とでも呼ぶべきものだ。生まれてから現在までの年数ではなく、現在から死亡するまでに残されている年数のことである。
もっとも、死生学的年齢を正確に算出することは難しい。幸いと言うべきだろうが、自分がいつ死ぬかはわからないからだ。そのため、人口統計と死亡率(特定の年齢の人が死亡する確率)を基に、おおよその推測をすることしかできない。
人生のどの時点においても、その年齢での死亡率が低いほど、その後に残されていると期待できる年数は長い。要するに、死亡率と死生学的年齢は逆相関の関係にあると言える。
また、死亡率は、人の健康状態を映し出す指標として暦年齢より優れている。ある社会の死亡率が低ければ、その社会で生きる人の健康状態が良好で、残されている年数も長いとみなせる。ある意味では、そのような状態こそ「若い」と呼ぶべきなのかもしれない。
「かつてなく若い」イギリス
この点について、イギリスの例を見てみよう。1950年以降のイギリスの平均年齢(平均暦年齢)と、死亡率(人口1000人当たりの死者数)の推移を見たとき、暦年齢を基準に考えれば、いまイギリス社会は過去になく老いている。
ほかの条件がすべて同じなら、社会の平均暦年齢が上昇すれば死亡率も高まる。高齢者ほど死ぬ確率が高いからだ。ところが、実際の死亡率は逆に下落している。今日のイギリス人は、平均してかつてなく高齢になっているが、いまほど、残されている人生が長い時代はなかった。
暦年齢だけ見れば、イギリスが高齢化社会であることは明らかだ。しかし、死生学的年齢に着目すれば、いまのイギリスはいまだかつてなく若い社会になっているのである。
このような現象を生んでいる要因が年齢の可変性だ。単に人々が長生きするようになっただけでなく、老い方が変わりはじめているのだ。
生物学的な面でよりよい老い方ができるようになれば、人々の健康状態が良好になり、年齢ごとの死亡率も下がる。この点は、50歳超のアメリカ人2万1500人を対象にした研究からも明らかだ。
その研究によれば、1988年から2010年の間に、アメリカ人の生物学的年齢(さまざまな身体面の指標から算出)の対暦年齢比は低下している。
暦年齢だけに着目することの弊害は、それが名目ベースの指標にすぎず、本当に重要な要素を考慮に入れられない点にある。具体的には、健康状態や行動習慣などが反映されない。ある暦年齢の人の健康状態や行動習慣が全員同じなら、それでも問題はないだろう。
しかし、年齢に可変性があるとすれば、このような名目ベースの指標を用いることは正確性を欠く。
今日の78歳と1922年の65歳が同水準
この種の問題は、インフレ(物価上昇)をめぐる経済学界の議論ではおなじみのものだ。1952年のアメリカでは、1パイント(約0.5リットル)のビールの価格は0.65ドルだった。2016年にはそれが3.99ドルになっている。
これだけ見ると、ビールの価格が上昇したことは明白だと思えるかもしれない。しかし、物価上昇率を考慮に入れると、1952年の0.65ドルは2016年の5.93ドルに相当する。つまり、実質ベースでは、ビールは1952年当時より値下がりしているのだ。
同じように、「年齢のインフレ」も考慮する必要がある。物価のインフレが進むと、1ドルで購入できるものが年々減っていくように、年齢のインフレが進むと、暦年齢が1年増えることにより進行する老化の度合いが小さくなるのだ。
この点は、「老いるとはどういうことか」という点に関して非常に大きな意味をもつ。イギリスでは1925年、65歳以上の人が公的年金を受給できるものとされた。しかし、年齢ごとの死亡率では、今日の78歳と1922年の65歳が同水準だ。
年齢のインフレを計算に入れるなら、78歳以上を「高齢者」の基準にすべきなのかもしれない。
「高齢化社会」の到来に警鐘を鳴らす主張は、暦年齢だけに着目し、高齢者の数が増えている点ばかりを強調する。こうした考え方は、年齢のインフレを考慮していないため、人々の老い方が大きく変わりつつあり、長寿化が個人と社会に多くの機会をもたらし、新たな問題解決策をも生み出しているという事実を無視しているのだ。
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提供元:「いま何歳?」質問する人は思考停止している訳|東洋経済オンライン