2020.12.04
今こそ食べたい「汁かけ飯」知られざる黄金律|意外と奥が深い汁かけ飯のおいしい食べ方
ゴハンにみそ汁をかけただけの「汁かけ飯」だが、食べ方にこだわり始めると実は侮れない一品かもしれいない……(写真:freeangle/PIXTA)
「丸かじり」シリーズなど、笑いと共感の食のエッセイの第一人者で、大のビール党である東海林さだお氏が、「ゴハンの食べ方」についてひたすら考えた。『ゴハンですよ』では、コロナ時代で自炊の機会が増えた今こそ立ち返りたい、ゴハンを食べる楽しみを、あらゆる角度からつづっている。
本稿では、行儀の悪いゴハンの食べ方の代名詞ともいえる、汁かけ飯(みそ汁をゴハンにかけたもの)について考察を巡らせている。ゴハンとみそ汁の温度はどのぐらいがよいのか、みそ汁の椀にゴハンを投入するのがよいのか、ゴハン茶碗にみそ汁を流し入れるのがよいのか、みそ汁の具は……。
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汁かけ飯に関する格言を知っているか
汁かけ飯を食べたことがありますか?
ない?
え? ある?
は? 汁かけ飯を知らない?
そうか、そうか、そういう人もいるわけだ。
汁かけ飯というのはですね、ゴハンにみそ汁をかけたもの。ただ、それだけのものです。これをズルズルとかっこむ。おかずはなし。
みそ汁そのものがおかずというわけで、言ってみれば“液体おかず”というわけですね。
ズルズルとかっこめば、ゴハンもおかずも、ついでにみそ汁さえもいっぺんに食べたことになる。まことに勝負が早い。
もう、なんというか、安直、簡便、下品このうえない食べものなのだが、これがうまい。
昔はどの家でも、朝食のときに汁かけ飯をして、親に怒られている子どもがいたものだった。
汁かけ飯に関する格言さえあった。
「汁かけ飯をするとすべってころぶ」
という格言であった。
汁かけ飯は、罪の意識と共にすすりこむ食べものだったのである。
(イラスト:東海林さだお)
汁かけ飯は、1人で食べるときでも、作ってから必ず周りを見回し、それから食べたものだった。
罪の意識が、かえって汁かけ飯をおいしくさせるのであった。
さっきから、汁かけ飯、汁かけ飯と書いているのだが、これははたして正式な名称なのだろうか。
大体からして、社会的に認知されていない食べものであるから、ちゃんとした名前さえないのではないだろうか。
そう思って、不安にかられながら辞書を引いてみると、ちゃんとありました。
【汁掛け飯】みそ汁などをかけた飯。
よかった。逆転無罪だ。今日から青天白日の身だ。
汁かけ飯が衰退した理由
汁かけ飯というものは、食事の初期段階から、いきなりそういう事態に立ち至るということはあまりない。
必ず中盤以降、突如としてそういうことになる。
時間的逼迫、おかず的逼迫、この2つがそのきっかけになることが多い。この、二大重大逼迫を、汁かけ飯は一挙に解決してくれるのである。
近年、汁かけ飯が衰退した理由は、時間的逼迫のほうはともかく、おかず的逼迫という事態がほとんどなくなったせいかもしれない。
しかし、あれですね。汁かけ飯というものは、改めて感じましたが、やっぱりおいしいものですね。
それになにより懐かしい。
うまくて懐かしくて、思わず回想にひたってしまう。
やっぱり汁かけ飯というものは、ダイニングキッチンで食べるものではなく、茶の間が似合うようだ。
テーブルではなくちゃぶ台が似合う。
電気釜ではなく布巾のかかった木のおひつが似合う。
蛍光灯ではなく、二股ソケットの電球が似合う。
あの頃が、汁かけ飯の全盛時代だったような気がする。
だが、いま、この飽食の時代に、再び汁かけ飯が脚光を浴びようとしている(ぼくの周辺でだけだけどね)。
このところ、汁かけ飯に凝って、いろいろやってみた結果、次のような研究成果を得たのでここに発表したい。
ゴハンとみそ汁の両方が熱いとおいしくない。
いちばんいいのは、ゴハンが冷めかけでみそ汁が熱い、という組み合わせだ。
みそ汁の実はないほうがいい。
ないほうがいいが、過去において、ジャガイモや玉ネギや大根の千六本と同居していた、という事実は欲しい。
入籍まではいかなくていいが、同棲の過去が欲しい。
この過去が、みそ汁の味に大きな影響を与えていてくれると、汁かけ飯はいっそううまくなる。
ゴハン茶碗で食べるか、みそ汁椀で食べるかという問題
ゴハンのほうにみそ汁をそそぐか、みそ汁にゴハンを投入するか、これも重要なテーマだ。
みそ汁に投入したゴハンのかたまりが、少しずつみそ汁の中に水没していく風情も好もしいが、みそ汁をかけられたゴハンのかたまりが、少しずつ崩れていく風情も捨てがたい。
(イラスト:東海林さだお)
この問題は、最終的に、ゴハン茶碗で食べるか、みそ汁椀で食べるかという問題にリンケージされていくわけで、どちらの本拠地を使用するかというメンツの問題ともなっていくことになる。僕としては、やはりみそ汁のほうの顔を立ててやりたいような気がする。
なぜかというと、汁かけ飯においては、みそ汁の果たす役割があまりにも大きいからだ。 みそ汁なくしては汁かけ飯は成り立たない(当たり前だ)。
まず、熱いみそ汁を、みそ汁椀にそそぐ。むろん、過去にいろいろあったが、いまは独身というみそ汁だ。
ここに冷たいゴハンを投入する。
電気釜で保温されていたゴハンは、いったん冷まさなければならない。量はみそ汁の半分ぐらい。
すなわち、みそ汁だぶだぶ、ゴハン水面下、という状態がベストだ。
ゴハンのかたまりを箸で突き崩したらすぐに食べ始める。
最初は圧倒的なみそ汁の味、続いてすぐに、まだ温まりきれないゴハンが流れこんできて混じりあい、ああ、この2人は、ついさっきまで別々に暮らしていたのだが、こうして一緒になる運命だったのだなあ、という味になる。
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しかしよく考えてみると、みそ汁のほうは、ジャガイモや玉ネギと同棲していたという過去があるわけで、そのことをゴハンが嫉妬してもめるということもありうるのに、少しもそうしないでかえってそのことを祝福している、という味になる。
汁かけ飯は、お茶漬けと違って、冷えていたゴハンが、これから温まろうとするあたりがおいしい。
ゴハン粒にみそ汁がしみこまないほうがいい。口の中で、ゴハンとみそ汁が、はっきり別の味となっているところが、汁かけ飯のおいしさだ。そしてゴハンとみそ汁が、それぞれ独身だったときの味と違って双方、不思議な甘さを醸し出す。
最初の一口を、ズズッとすすりこんで、モグモグとゆっくり味わったあとは、なぜか急にフンガー的心境になって加速度がつき、残りは息もつかずに一気にかっこんでしまうところも、汁かけ飯の不思議なところだ。
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提供元:今こそ食べたい「汁かけ飯」知られざる黄金律|東洋経済オンライン