2021.09.08
「食べる」より「出す」ことが何より快感になった日|完璧にスッキリを実現するたった2つの習慣
小豆入り玄米、梅干し、すりごま。これさえあればと思えるイージーな安心感は宝物!(写真:筆者提供)
疫病、災害、老後……。これほど便利で豊かな時代なのに、なぜだか未来は不安でいっぱい。そんな中、50歳で早期退職し、コロナ禍で講演収入がほぼゼロとなっても、楽しく我慢なしの「買わない生活」をしているという稲垣えみ子氏。不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、連載第23回をお届けします。
健康とは情報やお金でなく「習慣」で手に入れるもの
お金を使うより使わないほうがずっと健康になれた!……という驚愕の体験を、前回、前々回と綴らせていただいた。
稲垣えみ子氏による連載23回目です。
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しかし改めて考えるに、これは当たり前といえば当たり前のコトなのかもしれない。
人とて一つの生き物であり、生き物とは本来「健康」にできているのだ。生まれながらにして、健康をキープする仕組みを備えているのであります。「自然治癒力」ってやつですね。
例のコロナにしたってワクチンばかりが注目されるが、我らの体はそもそも自然免疫という能力を備えていることも忘れちゃいけない。要は、余計なことをせず自然に健全に生きてさえいれば、生き物はおおむね健康でいられるはずなのだ。
だがこの「余計なことをせず自然に健全に」っていうのが、現代人においてはまったく簡単じゃない。そう「欲」というやつが邪魔をするのであります。あれもしたい、これも食べたい、あれも欲しい……という、自然な生活では飽き足らない欲望は、果てしなく我らの心をワシ掴む。
なのでそれをせっせと買っていると、どんどん生活はオプションだらけになって不自然になっていき、しかもそのお金を稼ぐには当然それなりのストレスが生じるわけで、さらに自然な生活は遠くなり……ってことを繰り返しているうちに、我らはいつの間にか、余計なことをしなければ本来誰もが持っているはずの「健康」ってものが、えらく複雑で難しい、お金がなければ、情報がなければ手に入らないスペシャルなものだと思い込むようになってしまった。
……ということを、今の私は知っている。
というわけで、ただ欲を遠ざけて健康的な生活を送るという、消極的かつ超安上がりな手段により、着々とちゃっかり健康を手に入れる日々であります。そう健康とは情報やお金で手に入れるものではなく、毎日の習慣により積み上げていくものなのだ。
これを面倒と思うのか、それとも希望と思うのか。
私にとっては間違いなく、この上ない希望である。だって日々健康でいるってことは人生の時間の質をアップすることで、つまり生きている時間を輝かせることに他ならない。それって生きとし生けるものすべてが望むものなんじゃないのかしら。
そしてそれは、何に頼らずとも自分の力で作り上げることができるのだ。そうとわかれば作り上げるのみ。どんな大金持ちを羨むこともない。今の私でまったく十分。そう思えるだけでも実に健康的。うん。どう考えても最高じゃないですかね?
ただこれはあくまでも基本となる健康の話であって、世の中にはさまざまなアクシデントというものがある。菌やウイルスもいるし、気候の変化や忙しさやさまざまなストレスで自分の体も日々変化する。つまりは体調を崩したり、それがひどくなれば病気になったりすることは誰だって避けられない。
そんなピンチの時にこそ、薬や医療に頼るという選択肢が登場する。つまりはここで初めて(←ココ重要!)お金や情報の出番というわけですね。
快便は元気のバロメーター!
……と考えていて改めて気づいたんだが、私、体調を崩したときの対処法をいくつか持っているのだが、そのことごとくが、これまた「買わない」方法ばかりである。
思い返せば、この5年間で医者に行ったのは歯医者くらい(歯がわが最大の弱点なのだ!)。薬も買ったことがない。ドラッグストアへ行くのは重曹とクエン酸を買うときのみである。
ふむ。人はお金に頼らずともそこそこの不調に対処することはできるものなんだなと、我ながらちょっと感心してしまった。
というわけで、せっかくの機会なので、その具体例について、ご参考までにいくつか紹介させていただく。
まずは、便秘対策である。
いうまでもないことだが、たかが便秘と侮ってはいけない。入れて、出すことがリズミカルに日々行われているかどうかは、健康の基本のキ、一丁目一番地である。
話は多少それるが、昔、乗馬を何度か体験したことがあって、そのときお馬さんたちがしょっちゅう盛大にひねり出すウンコの巨大さに驚き、そのあまりの量に、始末する身としては「え、またウンコ?」とブーブー言っていたら、牧場のスタッフに「これが大事なんです! 順調に出ないとたちまち重い病気になっちゃうんですよ。命にも関わります」とたしなめられ、なるほどそうかと感心したことがあった。
何しろ馬は草を食べてますからね、どう考えても食物繊維の摂取がハンパない。それがどこかで詰まっちゃったら確かに腸がたちまち破裂しそうである。そう思ったらウンコの処理もまったく気にならなくなった。快便は元気のバロメーター! そして自分も同じだなと思ったのだ。我ら食べることばっかりに夢中になっているが、出すことも同じくらい大事なのだ。
朝スッキリと起きられる!
で、今の私、自慢じゃないが(いやどう考えても自慢ですが)、現在便秘とはまったく無縁である。もし「ウンコオリンピック」みたいなものがあれば、少なくとも地区代表くらいにはなれるんじゃないかと、毎朝スッキリ排便を終えるたびに晴れ晴れと自画自賛する日々である。
つまりは私、今日も元気です!
で、そのコツですが。私が実践しているのは以下の通り。
まず、夕食は「夕方」に済ませる。理想は、午後6時までに終える。その後は食べ物は口にしない。まずは胃腸が余裕を持って働く時間を確保し、消化を完全にする作戦である。
これは、まだ健康迷子の真っ最中だった会社員時代に読んだ、とある整体の本でオススメされていた方法であります。
最初は「6時までに」という暴力的とも言える時間設定に、とにかく驚いた。夜型に傾く現代人の暮らしにはいくら何でもハードルが高すぎると思ったのだ。
だが夕方早い時間にサクッと一人蕎麦など食べ、あとはゆっくり残業をすれば、案外できないこともないのであった。たまの飲み会では漬物をふた切れほど食べてやり過ごせばよし。で、そんなことをなんとかかんとか続けていると、何が変わったって、まずはたちまち、朝めちゃくちゃスッキリ起きられるようになったんである。
目覚まし時計などまったく不要。空が明るくなると、まるで自分自身が目覚まし時計であるかのようにパッチリくっきりと目が覚めた。いやー何これ? 1日がこんなに爽やかにスタートできるなんて! それまでずっと、朝が来るのを憎み、とにかく一分一秒でも長く寝ていたかった自分が嘘のようだ。いやはやこんな世界があったとは。
要するに、夜遅い時間にたらふく食べていたことが、いかに体に負担を与えてきたかということである。わが内臓にめちゃくちゃ過酷な残業をさせていたようなものだったのだ。私自身がブラック企業だったんである。その無茶な負担がなくなれば、胃腸も体もゆっくり休めて、ちゃんと元気いっぱいに朝を迎えられるのであった。
元気でいるって、本当に素敵で大事なことなんだと、私は反省しつつしみじみと心にかみしめたのでありました。
その、生まれて初めて体験する気持ちよさを知ってしまったら、便秘問題はさておいても、夜ダラダラと飲み食いしたいなどという欲は音を立てて急速に減退した。以来「夜食」でなく「夕食」がすっかり習慣化して今に至る。
そして、お次はヨガの先生に教わった方法。
朝、起きぬけに1杯の白湯を飲む。もちろん2杯でもいい。そして、しばらくゆったりと過ごす。瞑想などしてもよし。すると程なくして便意を催してくるので、スッキリと排泄して1日をスタートさせるのである。
肝心なのは、これを毎日の習慣にすることだ。
何しろ日によって、湯を飲んでから便意を感じるまでの時間はさまざまである。でもそれで「もう遅刻するから今日は諦めよう……」なんてことを繰り返していると、事態はなかなか改善しない。あくまでもそのときが来るのを待つ。そのためには時間の余裕がなければならない。
なので早起きをして、湯を飲んで、時間を気にせずゆったりと座る。そして出す。つまりは「出す」ことを義務化するのである。
これを毎日毎日繰り返しているうちに、体がその「リズム」を覚えてくる。つまりは調子づいてくる。毎朝の排便が一年365日の習慣になる。そうなると、排便がないと気持ち悪いという感じになってくる。絶対排便してやるという決意はいやが上にも固まる一方である。
ここまでくると、排便の具合で日々の体調もわかるようになる。ウンコの出が悪いとき、つまりは出るまでに時間がかかるとか、いいリズムでウンコが出ないときは、これはきっと良くないサインだなと思わざるをえない。
前の日に食べたものを思い返し、あるいは、変なストレスがあったんじゃないかとか、寝る時間が遅かったんじゃないかとか、わが生活態度を胸に手を当てて振り返ることになる。
そして、今日はちゃんと体調を整えようと思う。例えば前日にご馳走を食べ過ぎたなと思ったら、今日はおかずは大根おろしにしておこうなどと思う。その繰り返しが、体調の悪化を最小限に食い止める確実な防波堤となっていく。
人生ベスト3に確実に入賞するレベルの快感
そこまでくると、今度はウンコの形状にもこだわるようになってくる。
ただ出ればいいというものではない。本当にスッキリと、いわゆるバナナ状の便がするりと出るということ。そういう体験、皆様、実際に味わったこと、ありますかね?
いや案外、ほとんどの人はそういう体験をしていないんじゃないかと私は疑っている。何しろその快感はあまりに強烈で、世の中のすべての娯楽を集めたとして、そのベスト3には確実に入賞するレベルの快感なんである。
となれば、それを一度でも体験してしまったらデスよ、人生が変わらざるをえない。端的に言って、この快感を得るならば何でもしようという気になってくる。
ウンコに人生を振り回される?
となれば当然、いそいそと快便のための食事に勤しむことになる。
私がたどり着いた「最強の快便食」は、玄米だ。玄米の排便パワーというのは本当に信じられないほど強力である。健康に関心を持つ少なからぬ人が玄米食にハマるのは、これが一番大きな理由なんじゃないかと私は密かに思っている。何しろこのスッキリ体験をしてしまうと、それ以外の時がどうしても「物足りなく」思えてしまうのだ。
ということで、1日に1度は、まるでお守りのように玄米を食べずにはいられない。ここに糠漬けやら味噌汁やらの発酵食を加えたら完璧である。
そして、この「完璧な食事」の美味しさといったらないのだ。
それは、ただの舌の上での美味しさなんてもんじゃない。それが体の中を通り抜けていくことで、ピカピカになった内臓が喜びのコーラスを合唱するのが聞こえてくるかのようで、一口食べるたびに本当に心の底から、しみじみと「おいしい……」と思わずにはいられない。
そんな、体の中をさわやかな風が通り抜けていくような美味しさを体験してしまったら、これ以外に食べたいものなんてなくなってしまう。
きらびやかなご馳走の類などは、どうも腸の内側に何かがべったりとくっついてしまう気がして、用心する気持ちの方が強くなってくる。つまりはちっとも惹きつけられない。というわけで、高級レストランなどでの食事のお誘いなどあれば、真っ青になって断る今日この頃である。
いやもうここまでくると、お金に人生を振り回されなくなったのはいいが、今度はウンコに人生を振り回されていると言っても過言ではないですね。
人生を「排便」がリードするようになっていく。生きていくためにスッキリ排便を目指していたはずが、いつの間にかスッキリ排便するために生きているといった感じになってくるのである。
どうですかみなさん。どうぞ笑ってやってください。もちろん自分が一番笑っております。人生はどこでどう転ぶかわからない。
しかしですね、案外これが正解なんじゃないのかなと。
何しろ人生で何一つうまくいくことがなかったとしても、毎朝の快便という人生ベスト3の快感だけは日々必ず手に入れることができるのだ。そのことがわが人生をどれほど明るくしているか。お金に振り回されるより100倍効率的であることは間違いない。
うん、これでいいのだ。
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提供元:「食べる」より「出す」ことが何より快感になった日|東洋経済オンライン