2021.03.05
コロナ後が逆に不安な人々が実は少なくない訳|生活や仕事の自律性、非日常を失うという反動
「コロナロス」という言葉すらささやかれている(写真:Soichiro Koriyama/Bloomberg)
国内で新型コロナウイルス感染症ワクチンの接種が始まった。接種が先行している海外では、有効性が高いとの研究結果も出されるなど、コロナ収束に向けた楽観的な空気も生まれつつある。
そんな中、コロナ収束に対して不安を口にする人々が目立ってきている。これは「コロナロス」という言葉に見事に象徴されている。もちろん、接種が行われたからといってすぐに収束することはなく、これまでの感染症対策も引き続き徹底する必要はあるが、そのメドがついたことで収束が現実味を増したことが影響している。
「コロナロス」に込められた意味合い
もともと「コロナロス」は、最初の緊急事態宣言が発出された昨年4月あたりからネット上でささやかれ始めたもの。自粛とテレワークの快適さになじんだ人々が、コロナの収束により以前のライフスタイルに戻ることを、恐れる心理を見透かした意味合いがあった。また、業種によってはコロナでかえって潤った人たちを揶揄する意味合いも含まれていたようである。感染者数が鈍化するたびに話題に上ることが多かった。昨年の段階では、まだ少数の人々の間で共有されていた感覚だが、ワクチンの接種が追い風となって一般化しそうな気配がある。
このようなコロナロス、正確に言えば、「コロナが収束した後の世界に不安を覚える」理由は、主に2つあることが推測できる。
(1)コロナを理由に可能になっていた生活や仕事の自律性が失われること
(2)コロナの只中にいることで生じていた非日常的な感覚が失われること
1年前、WHO(世界保健機関)がパンデミック(世界的な大流行)を宣言し、日本で緊急事態宣言が発出されると、不要不急の外出自粛、出勤者7割減などといった行動変容を促す強い要請により、フルリモート勤務への移行や飲み会の禁止など従来の慣習を大きく変える動きが拡大した。
以降、多かれ少なかれ新しい状況に自分を適応させる努力が、物心両面でなされたはずである。いわば「非常時への適応」が広く推奨されたわけである。だが、当たり前だがコロナが収束すれば、今度は「日常への適応」が必要になる。これは自然災害などに遭遇したストレス反応の経過における「再適応期」に当たる問題として捉えられる。
4段階の心理的回復プロセスに当てはめると
災害の心理的回復プロセスは、一般的に「英雄期」「ハネムーン期」「幻滅期」「再建期」の4つに分けられるという。
(1) 英雄期・・・災害当初、自分と家族、近隣の人々のために誰もが必死になる時期(災害直後)
(2)ハネムーン期・・・劇的な体験を生き延びた人々が助け合い、連帯のムードに包まれる時期(1週間〜6カ月)
(3)幻滅期・・・避難生活の疲れなどから不満が噴出し、怒りの感情などが表面化し、住民同士のトラブルなどが目立ち始める時期(2カ月〜1、2年)
(4)再建期・・・被災地に「日常」が戻り始め、生活の建て直しが進んでいく一方で、復興ムードから取り残される人々や、精神的な支えを失った人々の問題がくすぶり続ける(数年間)
(デビッド・ロモ『災害と心のケア ハンドブック』水澤都加佐監訳、アスク・ヒューマン・ケア)
地震や風水害などの自然災害と異なり、感染症の流行などの生物災害(欧米ではパンデミックは感染症災害として扱われる)は、現象そのものが短期間ではなく長期間にわたり、流行の状況や被害の範囲にも左右されるため、必ずしも前述の心理的回復プロセスの通りに進行するわけではないが、「英雄期」「ハネムーン期」を災害への「適応期」、「再建期」を日常への「再適応期」と解釈すればわかりやすいだろう。
わたしたちはパンデミックの直後から、ニューノーマルの生活様式を少しずつ内面化し、出勤や人間関係に伴うストレスの減少など、その恩恵に浴する機会を得るとともに、コロナという共通の課題に立ち向かうための協力や協調、生物災害という特殊な時空間における緩やかなつながりを経験することになった。誤解を恐れずに言えば、ここには、新しい環境における自律性の獲得や、高揚感の持続への期待が含まれており、そしてそれはおおむね達成されたとみていい。
つまり、これまでの生活や働き方をコロナに適応させるだけでなく、それをプラスの側面から捉え直すといった思考への切り替えも行い、その結果、価値観や人生観に少なからぬ影響をもたらしたのである。自粛生活をきっかけに何が自分にとって大切かが明確になったり、人間関係を整理したりした人は多いはずだ。それらの一連の出来事が終わりを迎えることは、現在の適応形態を再び元の状態に戻すことに近く、生活や働き方の問題以上にメンタルの問題として現れるのである。再適応の困難だ。
非日常的な感覚の喪失
そこにあるのは、恐らく「もう満員電車には乗りたくない」「ムダな飲み会には参加したくない」などといった、見た目にも理解しやすい物理的な拘束への抵抗感よりも、コロナを機に図らずも切り開かれた(別の現実ともいえる)「新世界」が閉ざされることへの懸念だろう。
これがもう1つの非日常的な感覚の喪失に関係してくる。
先の「英雄期」や「ハネムーン期」の深層にあるものだが、これが消えてしまうのはある種の熱狂が冷却するのに似ていて、その落差のせいで戸惑いや空虚感に襲われる可能性が高い。
精神病理学者の木村敏は、精神病理を「祭り」(フェスト)における心理的時間感覚に例えたことで知られているが、災害の只中にいる狂騒の状態を「祭りの最中(イントラ・フェストゥム)」と考えると、災害の収束はいわば「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」であり、心にぽっかりと穴が空いたような虚無感が待ち受ける。
もちろん、災害そのものは通常の意味での「祭り」ではない。しかし、マスクやトイレットペーパー、食品の買いだめ・買い占め騒動が如実に示しているように、不安と恐怖にあおられた人々を独特の興奮状態に陥らせる「負の祭り」を作り出す。これはほんの一例にすぎない。非常時というものは、誰が被害をこうむるかが不透明という独特の緊張も手伝って、地面から数センチ上を歩いているような「浮ついた感じ」を醸成するだけでなく、非常時ゆえに享受することがきている自身のポジションに対する肯定的な気分と区別がつかなくなっていく。
このような再適応の困難と非日常感覚の喪失は、「コロナ後うつ」のような症状の蔓延として現れるかもしれない。
失政や身近な人のひどい言動を忘れてしまわないように
だが、もっと重要なことは社会との関連だろう。単なる感傷で片付けるのではなく、可能になったことを手放さず、気付きを深めることが必要になる。本当に避けなければならないことは、「コロナロス」といった言葉の背後で霞んでしまいがちな、コロナ禍における失政や身近な人々の人間性を疑う言動、それによるさまざまな被害について、「何事もなかったように忘れてしまう」ことではないだろうか。
今わたしたちは、マクロレベルでは、コロナ禍の遠因とされる野放図な経済活動などによる環境破壊とそれに伴う気候変動の悪夢を、ミクロレベルでは、前時代的で非合理な政治と社会構造による悲劇や、生産性優先の風潮を推し進める無慈悲な人々を見いだしているが、このような切実な問題意識をコロナが収束した後も持ち続けることができるかは大いに疑問だ。
この連載の記事一覧はこちら ※外部サイトに遷移します
これは経済学者のジャック・アタリが、「それまでの世界に戻ろうと願う者たちと、そのようなことは、社会、政治、経済、エコロジーの観点から不可能だと理解する者たちとの間で、激しい論争が起こるだろう」(『命の経済 パンデミック後、新しい世界が始まる』林昌宏・坪子理美訳、プレジデント社)と予見した問題に通じている。
コロナによってあらわになった酷薄な現実をしっかりと記憶することによってのみ、わたしたちはコロナ後をムードに押し流されずに歩むことができるだろう。
提供元:コロナ後が逆に不安な人々が実は少なくない訳|東洋経済オンライン