2018.01.05
ホームレスになった年収1200万男性の悲劇|働き盛りを襲う「介護離職」の現実
年収1200万円からホームレスになった男性が語る、その経緯とは…(写真:今井康一)
親の介護のために仕事を辞める「介護離職」が社会問題となっている。介護離職は一度退職すると好条件での再就職が難しくなる中高年層に発生しやすい。
明治安田生活福祉研究所とダイヤ高齢社会研究財団が2014年に発表した調査「仕事と介護の両立と介護離職」によると、介護のために転職した正社員が新職場でも正社員として働けたのは、男性が3人に1人。女性が5人に1人。転職前後の年収を比べると、男性は557万円から342万円と4割減、女性は350万円から175万円と半減していた。
介護離職の果てに待ち受けるものは何か。経験者の体験からその実態に迫る。
年収1200万円からホームレスへ
「40代を過ぎてからハローワークで求職しても見合った職はみつからない。会社を辞めるといずれ後悔する」
こう語るのは、高野昭博さん(61歳)。任意団体「反貧困ネットワーク埼玉」(さいたま市浦和区)などで、生活困窮者に相談を行っている。高野さん自身、親の介護で財産が尽きてホームレスにまでなった経験を持つ。
高野さんは高校卒業後、大手百貨店で正社員として働き、管理職になってからの年収は1200万円。休日にはスキーに没頭するという絵に描いたような独身貴族。その生活が一変したのは、咽頭がんを患う父の面倒を見るために介護離職をしたことがきっかけだった。
「母は病弱、6歳年上の兄は両親と折り合いが悪く家に寄りつかなかったから誰にも頼れなかった。親と同居していた自分が見るしかないと思い込んでしまいました。離職しないで済むようにさまざまな制度を使い倒せばよかったんですが、そこまで気がまわりませんでした」(高野さん)
かなり悩んだ末に離職を決意。ちょうどその頃、百貨店では早期退職を募っていて、流れに乗ってしまったという。ところが、退職して2週間後に父が他界。26年勤めた会社の退職金と預貯金を合わせて2000万円以上が手元に残った。
精一杯の親孝行のつもりで葬儀を執り行い、お墓を建てた。その費用は合わせて850万円。母の介護がはじまってからも想定外の出費は続いた。母は認知症の症状が出はじめ、高野さんが知らないところで、訪問販売などで布団やネックレスなど高額な商品を買い込んでいたのだ。
百貨店を退職してから2カ月後、知人の紹介でスポーツ店に正社員として就職する。スキーのインストラクターの資格を活かしてツアー添乗員などの仕事をしていたが、不況で人員整理がはじまり自ら身を引いた。3番目と4番目の勤め先は、小さな会社で業績も不安定だった。2年近く仕事をしたものの、賃金の未払いが重なった。2008年に母が亡くなり(享年86歳)、最低限の葬式を出して貯金が底を突いた。
月5万5000円の家賃を2カ月滞納したところで家主に追い出され、公園で寝泊まりするようになり、翌年11月、支援団体に保護された。その後、3年ほど生活保護を受けて自立できたのは、社会的包摂サポートセンターの「よりそいホットライン」で団体職員として採用されてから。電話相談員として生活に困っている人の悩みを聞き、サポートする側として活動の場ができた。そこで、介護離職の経験が役に立った。
「全国から電話相談だけでも年間500件ほど受けていますが、親の介護で疲れ切っている人からの相談は年々増えています。ここに電話をかけてくる人のほとんどが、崖っぷちの状態。親子共倒れにならないためにも、行政の支援に頼るなど早めにSOSを出してほしい」(高野さん)
親を看取れたのはいいけれど、その後、自分は仕事がなくて生活ができない、気がついたときにはハローワークで職探しをしても仕事がみつからない――。こんな人が介護破産に陥ってしまう。
介護がはじまってから1年以内が要注意
ワーク&ケアバランス研究所の和氣美枝さん(45歳)は、不動産会社の正社員だったが、7年ほど前に認知症の母(77歳)を介護するために退職した。介護に関する知識がなく、情報をどう集めたらいいのかわからなかった。次第に生活のすべてが中途半端になり精神的に不安定になった。
「介護者の不幸は選択肢がわからなくなることなんです。介護がはじまると『辞めるしかない』と思い込んでしまいます。病気になったら真っ先に病院に行くように、介護になったら真っ先に『地域包括支援センター』に行ってほしい」(和氣さん)
特に、介護がはじまって1年以内に退職した人が、介護離職者全体の半数以上にのぼるという調査結果もある。“介護の初動”をうまく乗り切る、そのためには、会社の制度や介護保険の1割負担で使えるサービス、自治体が独自に行っている安価なサービスを知っておく必要がある。
「地域包括支援センター」とは、在宅の要介護者や家族にとっての相談窓口で、市区町村の中学校区に1カ所設けられている。そこでは、要介護認定の申請やどんなケアプランを受けられるのかといった情報を教えてくれる。
介護の期間は平均4年11カ月(約3割は4〜10年未満)というデータ(生命保険文化センター「生命保険に関する全国実態調査」速報版2015年9月79ページ)があるように長期戦は必至。排泄や入浴介助が必要になったら介護サービスを利用してプロにまかせる。お金の面も含めて、家族の負担を最小限に抑えておくことが、破綻しないための一歩なのだ。
仕事と介護の両立は可能か
介護で一番辛いのは、睡眠不足に陥ること。夜中に排泄の介助のために起こされてそれから寝付けない。生活のリズムが乱れ、体調も悪化する――。そんな負のスパイラルに陥り、心身ともに疲労困憊する。
都内に住むヨウコさん(仮名、49歳)は2年前、父(享年92歳)と母(享年83歳)を相次いで看取った。二人の世話に明け暮れて夜も満足に眠れない生活が続いたとき、「定期巡回・随時対応型訪問介護看護」という新しいサービスを使い始めた。
このサービスは介護が必要になっても住み慣れた家で生活ができるように2012年度からスタートした。要介護1〜5の人が使える。
通常、訪問介護は原則1回、20分以上と利用の時間に制約があるが、「定期巡回・随時対応型訪問介護看護」の「定期巡回のサービス」は、短時間のケアを1日に何度も利用できる。自力でトイレに行くことができない人でも、ヘルパーがトイレの介助をしてくれるので寝たきり防止になる。週に1、2回、デイサービスに通うプランを組み合わせることも可能だ。
具合が悪くなったときのため、「随時対応サービス」でケアコールの端末機とペンダント型のブザーが貸与される。これを押すと、24時間いつでも介護事業所のオペレーターと会話ができ(通話は実費)、必要に応じてヘルパーを派遣する「随時訪問サービス」を受けられる。
ヨウコさんの母は亡くなる3年ほど前から認知症になり、要介護2と認定された。その母の世話をしていた父自身も心臓疾患を患い、介護が必要となってしまう。介護認定を受けると要介護1であった。
ヨウコさんには仕事もあり家庭もある。二人をデイサービスに通わせるのは困難だったので、同時に訪問介護が受けられるようにケアマネジャーに相談した。朝、昼、晩に30分間ヘルパーが入り、食事の世話、服薬の確認をする。訪問介護の時間は、一人あたり15分、二人で30分と事業所が配慮して決めてくれた。
「それまでは夜中でも『お腹がすいた』『トイレに行きたい』と言い出しては、同じ敷地内に住む私を呼び出すので、夜も満足に眠れませんでした。このサービスを使ってからは、夜もぐっすり眠れて仕事の最中に呼び出されることもない。本当に助かりました」(ヨウコさん)
利用料は介護保険サービスの自己負担1割(または2割)なのでサイフも痛まない。いい制度なのだが、「定期巡回・随時対応型訪問介護看護」のサービスを展開する事業所は少なく、必ずしも自宅の近くでみつけられるわけではないのが欠点だ。
ヨウコさんは幸いにも、歩いて5分ぐらいのところに事業所があったからよかったが、ヘルパーが頻繁に駆けつけることを考えると、自転車で1キロ圏内が限度。そもそもこうしたサービスを知らない利用者も多く、認知度を高めるためにも事業所が身近に増えることが望まれる。
「仕事は辞めない」という意識を持つ
休暇制度を使って最も辛い時期を乗り越えたのは、ユミコさん(仮名、50歳)。同居の母(享年68歳)が亡くなる2008年までの8年間、介護と育児、そして仕事が重なった。
「職場には育児と介護の家族を支える休暇がそろっていたので、片っ端から使いました」(ユミコさん)
母は肝臓病が悪化して入退院を繰り返していた。子どもはまだ小学生と保育園児で手がかかる期間。平日は週2回、18時に終業するとともに病院に直行した。ようやく退院がかなった母だが、介護が必要となる。要介護度は5。平日の週5回、朝昼2回の食事の世話を中心に訪問介護を入れた。夕方は自費でヘルパーを依頼し、母と子どもたちの食事をつくって食べさせてもらった。
「元気な頃の母は私が仕事を続けられるように、子育てをサポートしてくれたので、母の介護で仕事を辞めたくなかった。その分、母に恩返ししようと、疲れていても病院通いだけは続けました」(ユミコさん)
病院通いを続けたのは、少しでも多くの時間を母とともに過ごすことが一番の親孝行だと思ったから。病院から帰ってきて遅い食事を取り、母の洗濯物と一緒に洗濯機を回すのはいつも夜中になってしまった。朝は5時半には起床。睡眠不足が続いた。自宅での介護がはじまってからは、1時間単位で取得できる有給休暇を活用した。おかげで会社を休むこともなく介護を続けることができたという。
「『いつでも戻っておいで』という、上司のひとことがなければ、今の私はなかったと思います」こう振り返るのはマユミさん(仮名、35歳)。
実家に住む父が末期がんと診断された。自営業で母は働き、祖母の面倒を見なければならない。近くに住む姉は子育てに追われている。
「父の世話ができるのは自分しかいないと思い込み、会社を辞めて実家に戻りたいと上司に伝えました。父は手術後すぐに抗がん剤治療に入ったので、退院したら介護が必要でした。あと何年生きられるかわからない、といった状況でしたので、できる限りのことはしてあげたいと思い、当時保育園に通う娘を連れて実家に帰りました」(マユミさん)
ところがそのとき、「うちの会社には介護に関する制度があるよ」といって介護休業を勧められた。ひとまず、介護休業を2カ月取得。そのあいだ、家族と父を介護するための態勢を整えた。仕事の引き継ぎを兼ねたミーティングでも、「いつか自分も同じ立場になるかもしれないから」といって、送り出してくれた。
「そのときも職場に迷惑をかけてしまったという思いから、辞めるつもりでいましたが、休みに入ってから上司が『いつでも戻っておいで』とよく声をかけてくださったので踏みとどまりました。その言葉がなければ仕事から気持ちが離れてしまい、本当に辞めてしまったかもしれません」(マユミさん)
会社の制度があっても、「介護はまだ当分先の話だから、詳しいことは理解していなかった」とマユミさんがいうように、社員に認知されていないことがある。会社を辞めないことを前提に、制度を使う風土づくりが従業員の側にも求められる。
(登場人物の年齢、肩書は2017年4月時点)
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提供元:ホームレスになった年収1200万男性の悲劇ー働き盛りを襲う「介護離職」の現実|東洋経済オンライン