2024.06.03
「なるようになる」がチャンスを引き寄せる必然|ばんばひろふみさんが言った「結果はひとつ」
人生は「なるようになる」と考えれば、まだ見ぬ新しい景色に出合えるかもしれません(写真:Lyo / PIXTA)
書評家で作家の印南敦史さんは小学時代、自転車事故で頭を打って意識不明に。さらに中学時代はクラスメイトから仲間外れにされたり、高校時代は自宅が火事になったり……。散々な目にあいながらも、前向きに「人生に抗(あらが)ってきた」と言います。その気持ちはどのようにして形成されてきたのでしょうか。印南さんの新著「抗う練習」から一部を抜粋、再編集してお届けします。
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「なるようになる」は必然的な考え方
高校1年生だった1978年に、放送局の文化放送が「チャレンジ・アメリカ」というキャンペーンを立ち上げました。
ネーミングにはちょっと恥ずかしいものがありますけれど、3回審査をして選んだ高校生をロサンゼルスでホームステイを無料でさせてくれるという太っ腹企画。まだ見ぬアメリカにかぶれていた当時の僕にとって、それは夢のような話でした。
とはいえ、行けるのは15人だけです。ましてや東京都下の三流高校に通っていた僕はまったく模範的な高校生ではなく、合格する可能性は著しく低かったはずです。
ところが、受かってしまったんです。
他のメンバーは優等生揃いだったので思い切り異端児となったわけですが、とはいえ合格してしまえばこっちのもの。
番組代表として同行してくださったシンガーソングライターのばんばひろふみさんから、「印南、俺はおまえがいちばん心配や」と呆れられながらも、2週間のカリフォルニア・ライフを満喫したのでした。
でも、なぜ僕のような劣等生が受かったのでしょうか? それは、応募の段階からつねに「なるようになる」と考えていたからだと思います。
アメリカには憧れがあったので、もちろん受かりたいと思ってはいました。とはいえ、客観的に考えればその可能性はとても低い。
しかし、どちらにしても「なるようになる」し、「なるようにしかならない」。
なぜだか、そんな思いが心から離れなかったのです。
抗った結果は受け止める
どう考えても、望みが叶わない可能性のほうが高い──そんなときには、とかく悲観的に考えてしまいがちです。たしかに可能性が低いのであれば、悲観的になってしまっても無理はないでしょう。
しかし、ここには重要なポイントがあります。それは、「望みが叶わないことが決定した」ではなく、「望みが叶わない可能性のほうが高い」にすぎないということ。
まだ答えが出ていないのだから、叶う可能性が低かったとしても、ゼロではないということです。つまりそこにはまだ、「なるようになる」余地が残されているのです。
だとすれば、なにをすべきでしょうか?
少なくとも僕は「なるようになる」というところに可能性を期待します。高校生だったあのときもそうでした。
もちろんそれは、他のことがらにもあてはまります。
たとえ日常のほんの小さなことであったとしても、「ああ、困った。どう考えても無理だ。どうしよう」というような局面を強いられたときには、「なるようになる」と考えるわけです。そして経験値からいえば、多くの場合はそう考えていたほうがうまくいくものです。
「なるようになる」は、「なるべき必然的な結果に落ち着く」ということです。要するに「望みどおりになるかもしれないけれど、ならないかもしれない」ということです。
言い方を変えれば、行き着く先が望んでいなかったところだったとしても、それこそが「なるようになった」結果であるわけです。
そう考えれば、たとえ望んでいたものとは違った結果だったとしても、「なるほど、これが『なるようになる』ということだったんだな。つまり"必然"だったんだな」と割り切ることができるのではないでしょうか?
僕自身も何度もそう感じたことがありますが、そうやって目の前の結果を必然として受け止めれば、悔しさや悲しさはあまり感じないはず。なぜって、繰り返しになりますけれど、それは"必然"なのですから。
必然とは、必ずそうなると決まっていることを意味します。いわば、そこに行き着いたということは"そういうものだった〞ということなのです。
苦しんでも楽しんでも結果はひとつ
一緒にアメリカを旅したばんばひろふみさんには、それからもかわいがっていただきました。なにしろ僕は彼から見て「いちばん心配」な人間だったのです。「馬鹿な子ほどかわいい」ということわざがありますが、まさにそれだったかも。
ともあれそんなわけで、帰国後もばんばさんは僕にとって兄貴のような存在となったのでした。そして僕はなにかに悩むたび、ちょくちょく相談をしていました。いま思えば、それに付き合わされるばんばさんはたまったもんじゃなかっただろうなあ。
ひとつ覚えていることがあります。いつものようになにかに悩み、電話をかけて相談したときのこと。あのときは、「これからどうやって生きていったらいいんだろう?」というような、青春時代にありがちなことで悩んでいたのだと思います。
そんなことを相談されたって、答えようがないですよね。
でもそのとき、ばんばさんはこう話してくれたのです。
「印南、いまおまえは苦しそうに悩んでいるよな。でも、苦しんで悪い方向に考えていくと、どんどんエスカレートして、悪い結果を呼び込んでしまうぞ。そういうもんや。
それに、苦しんでいようが楽観的でいようが、行き着く結果はひとつだけや。だったら楽観的でいたほうが楽やんか。『結果はひとつだ』と楽に考えていけば、それに見合ったいい結果が出るもんなんや」
本当にそのとおりだなと感じました。そしてそれ以来、なにかの問題に直面するたび、僕はこのことばを思い出すようにしています。
いまでは楽観的に考えることがすっかり根づいてしまったため、「のんきですね」などとツッコミが入ることすらあるのですが、それくらいでいい気がしています。
ゴールへのプロセスこそが「抗う」意味
どんな物事にもゴールはあります。そしてそのゴールの形は、自分の気持ち次第でどのようにも変わるものです。
だからこそ、抗いたいという思いを抱きつつも、なかなかうまくいかないという方には、ぜひとも記憶にとどめておいていただきたいことがあります。
ゴールへ至る「抗い」のステップ
(1)いまがつらくても、ゴールがあることを信じる
(2)迷いを捨てて、そのゴールを目指す
(3)ゴールの先にあるものこそがベストだと信じる
(4)そのプロセスこそが「抗う」ことだと理解する
まずは(1)。いまがつらいと、そのつらさが永遠に続いていくような気分になってしまいがちです。しかし現実的に、それはありえないことです。どれだけつらくても、生きている以上は地獄に落ちたわけではないのですから。
つまり、生きている以上は必ず、「なるようになる」形で物事にはケリがつくものなのです。いいかえれば、「ああ、やっとなんとかなった」と思えるその場所こそがゴール。
だからこそ重要なのは(2)。すなわち「本当にあのゴールを目指していいのかな?」とか「目指す場所が違っていたらどうしよう」などとウジウジ考えず、迷いを捨ててそのゴールを目指すべきだということです。
仮にその先にある場所が間違っていたとしたら、そこを目指しているどこかのプロセスで違和感を覚えるはずです。「いや、こっちじゃない」と、理屈以前にピンとくるのです。
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それは人間が持つ"勘(直感的に感じ取る能力)"。したがって、もし勘が働いたのなら足を止め、また方向を修正すればいい。
そういうことを繰り返しながら進んでいけば、やがて必ず(3)、つまり「ベストだと信じられるゴール」は見つかるものです。だから、そこを目指せばいいのです。
もちろん、そうやって進んでいくことは決して楽ではないでしょう。しかし、そのプロセスこそが(4)。「抗う」ことなのです。
そして、そうやって抗って進んだ先に目指すべき場所、行き着くべきゴールがあるもの。いいかえれば抗うことは、自分に適したゴールにつながった道を示しているのです。
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提供元:「なるようになる」がチャンスを引き寄せる必然|東洋経済オンライン