2023.03.30
金哲彦氏「20代の挫折で鬱状態」乗り越えられた訳|プロランニングコーチが語る「心の病と走る事」
プロランニングコーチの金さんが20代のときに経験した「うつ」について語りました。写真は日常のトレーニング風景(写真:筆者提供)
足を蹴り上げ、腕を大きく振る――。この「走る」というシンプルな動作に隠されている心とのさまざまなつながりを、プロランニングコーチの金哲彦さんがひもとく本連載。今回は自身の体験から「心の病とランニング」についてお伝えします。
季節の変わり目でもあり、進学・就職・異動など環境の変化も多い春は、体調を崩しやすい季節です。体の不調もそうですが、心の不調も起きやすい時期でもあります。
今回は、筆者の“うつ”体験をご紹介しようと思います。
体にまったく力が入らない
あれは、アスリートとして真摯にマラソンに取り組んでいた、20代の半ばの出来事でした。夏の暑さも和らいださわやかな初秋の朝、本当に気持ちのいい日だったと記憶しています。
朝6時半ごろに目が覚め、いつものようにベッドから起き上がろうとしたのですが、体に力がまったく入りません。
自分の体にいったいなにが起きたのか、にわかには理解できませんでした。どうすることもできず、数時間そのまま横になっていました。解決策を考える意欲も湧かず、まるで、体の芯である背骨がするんと抜け落ちたような感じでした。
それから数日間は食欲も動く気力もなく、ただ天井を見上げ、わずかな食事とトイレで用を足すだけの時間を過ごしました。気力も体力も最高に充実した年齢であるはずなのに、生きるエネルギーが枯渇していたのです。
冷蔵庫の食料も徐々になくなりましたが、食欲がないので買い物に行く気さえ起きません。精神科で受診はしなかったので、実際に“うつ”だったかどうかはわかりません。でも、間違いなく心の病気だったと思います。
振り返ってみると原因はありました。複合的、かつ根深い心のストレスです。
その年はマラソンランナーとして大きな転機があり、オリンピックを目指す決意を固めていました。そして、いろんな人に助けられながら数カ月におよぶ厳しいトレーニングや、海外合宿を敢行しました。そしてすべての準備を終えた3月、満を持して目標のレースに挑みました。選手生命を賭けた大切なレースです。
その結果は……途中棄権です。
これ以上ない最悪な結果でした。合宿中に痛めた傷がレース中に爆発し、ふくらはぎの筋断裂を起こしてしまったのです。足を引きずりながら前進する選手を見かねた役員から制止され、そのまま担架で病院に運ばれました。大声で嗚咽しながら。
松葉杖がとれるまで2カ月かかりました。
ふくらはぎの痛みより、応援してくれた周囲の期待を裏切ったことへの申し訳なさでいっぱいでした。悔やんでも悔やみきれない、その思いこそが、心の傷だったのです
そして8月、途中棄権の傷心に追い討ちをかける悲劇が起きました。大学時代に一緒に箱根駅伝を走り、心から尊敬していた先輩2人が合宿中の交通事故で同時に亡くなったのです(この事故では5名の死者が出ました)。
心に空いた穴が広がっていく
お棺に入った亡骸1人ひとりと対面し、手を合わせました。火葬の後、私と同じ20代の志半ばで逝ってしまった先輩方の骨を拾いながら、むせび泣きました。泣き疲れて涙が枯れる頃、心に空いた穴が徐々に広がっていることを自覚しました。火葬場から出ると空は青く、まだ汗ばむ夏でした。
ふくらはぎの故障は秋になっても回復せず、ただただ強烈な自己嫌悪にさいなまれました。
スポーツ選手の役割は、努力する姿と結果を出すことで応援してくれる人たちに夢や勇気を与えることです。次のレースの目標が立てられない自分は、まったく社会の役に立っていない、そんなふうに思いました。
そんな地を這いずるような毎日に突然起きた体の変調だったのです。
うつ状態になってからは、ただ無気力なだけで、むしろ感情の起伏はなくなりました。つらいことに耐えられなくなった脳が思考をストップさせ、体の動きも止めてしまったのでしょう。
その“うつ”体験から30年以上が経過しました。いまだに精神科を受診した経験はなく、そのときの状態が重度だったのか軽度だったのかはわかりません。しかし、その回復する過程で、マラソンランナーとして人生とどう向き合い、切り開くか、人が走る意味や走る価値を掘り下げていく、1つのきっかけになったことは間違いありません。
“うつ”状態の回復過程で支えとなったのは、「走ることで失った自信は、走ることでしか取り戻せない」というある人の言葉でした。
思うように走れない自信喪失は、その頃の私にとってはアイデンティティーの喪失です。20代半ばのマラソンランナーにとって、走る以外に人生の目標は存在せず、レースで思う存分、力を発揮できてのみ得られる、生きている実感でした。走ること以外で自分を取り戻すことはできなかったのです。
走れない喪失感は、走れるようになれば取り戻せますが、交通事故で失われてしまった先輩たちの命を取り戻すことはできません。
命を失った人たちに生きている者ができることは、死んでしまった人の思いや心をつないでいくことです。私にできることは、若くして死んでしまった先輩たちの無念を、私ができることで晴らすこと、すなわち目標をもってマラソンを走り続けることでした。
もし、“うつ”のままマラソンランナーを辞めてしまえば、一瞬の交通事故で亡くなった先輩方の無念を晴らすことはできなかったでしょう。走ることから逃げずに「走ることで失った自信は、走ることで取り戻す」ことが、亡くなった先輩たちの思いをつなぐことにもなると思ったのです。
このままでいいはずがない
動けない状態が数日続いた後、頭の中に「このままでいいはずがない」という冷静な気持ちが芽生えてきました。
重い体を起こし着替えて、外に出る。歩いて買い物に行く。食事を作って食べる。まずは当たり前の生活からスタートしました。
冬になる頃にはジョギングができるくらいまでふくらはぎは回復しました。少しでも走れるようになると、たった1回のランニングでも小さな達成感がありました。まだ、大きな目標は立てられる状態ではありませんでしたが、少しでも走れることで得られた達成感が、心の傷をいやしてくれました。
今思えば、ランニングのセロトニン効果をこのとき体験していたのだと思います。
市民ランナーとして走る今でも、フルマラソンのフィニッシュが近づき感極まったとき、亡くなった先輩たちの姿が脳裏に浮かぶことがあります。フルマラソンで当たり前のように起きる肉体の苦しみや痛みを、亡くなった人たちの代わりに味わう。長い道のりを苦しみながら走ることが弔いのように感じるのです。
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1ついえるのは、私にとってこの“うつ”体験がとても大事だったということです。この体験がなければ今の私はなかったと思うのです。
苦しみの渦中にいるときにそう思うのはとてもつらいですが、私の経験が少しでも皆さんの励みになれば、幸いです。
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提供元:金哲彦氏「20代の挫折で鬱状態」乗り越えられた訳|東洋経済オンライン