2022.12.16
定年後「自分の居場所がない」と嘆く人の深層心理|「居場所より出場所」を作るという新たな視点
「居場所がない」と感じている人意外と多いのではないでしょうか(写真:66BIRTH/PIXTA)
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「居場所がない」と嘆く人がいます。
学校や家庭の中に居場所のない若者もいるかもしれませんが、職場や地域の中に居場所を見出せない高齢者もいるでしょう。場合によっては、家の中に居場所のないお父さんもいるかもしれません。しかし、居場所があれば解決する話なんでしょうか?
ソリッド社会、リキッド社会とは?
社会学者ジグムント・バウマンは、かつての安定した社会をソリッド社会と呼び、現代社会をリキッド社会と表現しました。地域や職場や家族という強く固いコミュニティの中に、1つの構成要素として組み込まれ、互いに結びついて、結晶体のような強さによって安心を得ていたのがソリッド社会です。
しかし、そうしたコミュニティにおいて、内側を守ってくれていた強固な外壁や城壁が失われると、個人は結晶から融解され液体へと変わる。それがリキッド社会です。
ソリッド社会では、確かに不自由な面はありました。しかし、そのかわり、進むべき安全な道が提示されていて、社会が守ってくれていました。反対に、リキッド社会では、人々は自分の裁量で動き回れる自由を得た反面、常にその選択に対して自己責任を負うことになります。それは、個人による競争社会を招き、それに伴う格差社会を生みやすくします。
これがもうすでに到来している「個人化する社会」の姿です。好むと好まざるとにかかわらずそうなります。結婚しても家族がいても誰もがいつかは一人に戻る可能性があるわけですから。
「居場所がない」と嘆く人たちは、この「所属するコミュニティ」の喪失、「どこにも所属していない」という帰属意識の欠落を感じているのでしょう。
そこで重要になってくるのが、以前より私が提唱する「接続するコミュニティ」という視点です。「コミュニティに接続ってどういうこと?」と思われる方もいるかもしれません。
コミュニティとは、所属するものであって、その帰属意識が人々に安心を提供するものだと考えられているからです。が、本当に所属をしなければ、人とのつながりは生れないのでしょうか。
すでに「接続するコミュニティ」の中で生きている
実際にはそんなことはありません。所属の有無に関係なく、私たちは接続することでのコミュニティを作れるはずなのです。
例えば、趣味のコミュニティなら、趣味を行うときだけそのメンバーと接続しています。趣味以外の時に相手がどんな仕事をしているとか、どんな生活をしているとかは気にしないでしょう。かといって、趣味の集まりの時は、協力したり、共に喜びを分かち合ったりしているはずです。
かつての職場のコミュニティは、家族同然で、相手がどんな生活をしていて、どんな価値観なのかを知り尽くしていたかもしれません。しかし、今では、仕事上でうまく協力し合えれば、相手のプライベートな部分を深く知る必要もない。深く知らなくても仕事上は回るからです。
上司もかつてのような師匠的存在ではない。仕事上でうまく関係性が構築できれば、必ずしも仕事帰りに一緒に飲みに行ったり、休日にゴルフに行く必要はない。
もちろん、仕事もプライベートも仲良くしたいのならそれはそれで構いませんが、「飲みに行かないから」「ゴルフを断るから」などという理由で部下の評価を下げたり、職場いじめをする上司は大問題になります。
このように、意識せずに、私たちはもうすでに「接続するコミュニティ」というものの中で生きています。確固たる「所属するコミュニティ」だけの中でしか自分がいるのではなく、時と場合に応じて、柔軟に接続するコミュニティを組み替えていっているはずなのです。
つまり、これからのコミュニティとは、場所や囲いではなく、ニューロンネットワークにおけるシナプスのような位置づけとなり、人と接続するための手段としての役割が求められてくるのです。
そうすると、1つのコミュニティが仮になくなっても、自分自身を見失うことはなくなります。むしろ時間が経つにつれて、接続するコミュニティが全て入れ替わることもあるでしょう。唯一の所属に依存しない分、一人ひとりに個人としての役割の拡張も生まれる。なぜなら、役割は、接続するコミュニティの数に応じて多重化するからです。
中高年の男性のみなさん、想像してみてください。定年退職して高齢の夫婦のみの家族になった時、もはや会社の管理職でもないし、親でもない。唯一残るのは妻の夫という役割だけになります。
しかし、そこで今更ながらハタと気づきます。夫の役割とはなんだ?と。正直、働いて金を稼ぐ以外に夫としての役割を見出せない人が多いのではないでしょうか。退職し、金も稼いでいないとすると、もはや夫の役割でさえ喪失してしまいます。
居場所の喪失とは自己の役割の喪失
役割を喪失した人間は何もすることがなくなり、だらだらと終日テレビを見て過ごすことになってしまいます。今までやることもなかった家事や料理にトライしようと思っても、何十年もやってこなかったことをいきなりできるほど甘いものではない。むしろ、妻からすれば余計な手出しは迷惑になる可能性が高い。
かくして、仕事をやめて夫婦だけになった高齢男性は、急激に自己の役割を失うとともに、唯一の「所属するコミュニティ」メンバーである妻からも邪魔者扱いされてしまうことにもなります。居場所の喪失とは自己の役割の喪失なのです。
囲いに覆われた建築物としての「家」は確かに残っていますが、そこにはもう自分の居場所がないことに気付かされます。「所属するコミュニティ」だけに唯一依存してしまう末路はそういうものとなりかねません。
その点、「接続するコミュニティ」では所属を必須としないし、単発での関わりでもいい。継続性すらなくてもいい。そのかわり、たくさんの接点を持つことが求められます。
「所属するコミュニティ」が「居場所」としての安心だとするならば、「接続するコミュニティ」は「出場所」としての刺激です。
居場所があることの安心は否定しません。しかし、居場所さえあれば人間は生きていけるのかといえばそうではない。毎日、部屋に閉じこもってテレビやゲームだけしていればいいと思う人もいるかもしれないが、最初のうちは快適でも、それが長く続けばどうでしょう。
それは、テレビやゲームの完備された刑務所と同じではないだろうか。居場所とともに自分の役割が感じられなければ人間は腐ります。FIREした人たちが、お金も居場所もあるのに、退屈すぎてまた働きたくなるのもそういうことでしょう。
「出場所」があるとまず人間はその場所まで出ていくという行動が必要になります。明確な目的がなかったとしてもそこに行くという行動を先にすることで、人間はちょっとだけ前向きになっているものなのです。
「やる気がないから行動しないのではない。行動しないからやる気が出ない」と言われるのはまさにその通りで、人間は意志の力で動いているのではありません。動くから意志が後付けされるのです。
「出場所」は場所に限らない
「出場所」と表現していますが、これは場所には限りません。散歩という行動も1つの「出場所」になりますし、本を読むという行動もそうです。その際、できれば、自宅で本を読むより、ファミレスやカフェや公園など、どこかいつもの居場所と違う場所に「出かける」ことで、より一層「出場所」感が増すと思います。
同様に、映画館で映画を観ることも、コンサートやライブ、寄席などに行くことも「出場所」になります。特定の継続性のあるソリッドな居場所じゃければ安心できないという固定観念を取っ払うと、行動そのものが「出場所」となりえるのです。
当然、「人と会う、人と話す」という行動も「出場所」になる。その相手は必ずしも友達である必要はありません。もちろん、友達でもいいのですが、それより、むしろ全く知らない赤の他人との刹那のつながりが結果として自分に刺激をもたらす場合も多いし、知らない相手だからこそ気軽に話ができる場合もあります。
友達がいなくても、趣味などなくても、誰かと接続する機会は案外たくさんあります。一人旅をしてみることもおすすめしています。極論すれば家に居場所がなくても、たくさんの「出場所」を確保できればなんとかなるものです。
どこかのコミュニティに所属することでの安心な居場所を求めることだけに固執するのではなく、接続点を多く持ち、まず自分自身の「出場所」を作っていく。
その「出場所」において、誰かと出会ったり、何かと触れ合うことが、結果的に自分自身の内面に安心な別のコミュニティを次々と築いていくことにつながります。行動した分だけ地層のようにそれは自分の内面に積み重なっていくのです。
居場所ではなく、「出場所」を作る。こういう視点はいかがでしょうか。
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提供元:定年後「自分の居場所がない」と嘆く人の深層心理|東洋経済オンライン