2022.02.18
81歳の志茂田景樹「人生の9割は無駄」と語る理由|30代半ばまではほとんど後ろ向きで生きてきた
志茂田景樹さん(写真提供:志茂田景樹事務所)
「人生の9割が無駄である」と言われたら、どう思うでしょうか。大学を2年留年して卒業、それから何度も職場を変える転職人生を経た志茂田景樹さん。30代半ばまではほとんど後ろ向きで生きてきたと話します。81歳の今は、関節リウマチと呼吸器疾患を抱えて車椅子ユーザーの介護生活を送っています。
「人生の9割は無駄である」は、そんな志茂田景樹さんの言葉です。
「無駄をやっているんじゃないか、無為に年月を浪費しているんじゃないか。それならばそれでいい。人生の9割は無駄なのだ、と割り切ればいいだろう。あとの1割の中で結果が出る、と開き直れ。無駄だと思っていることはけして無駄じゃない。人生の醍醐味はそこにあるということをしっかり胸に刻み込んでほしい」
転職人生の末、40歳で直木賞を受賞した志茂田景樹さんの8年ぶりのエッセイ『9割は無駄。』から、抜粋してメッセージを紹介します。
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これが幸せか、って感じながら1日がスタートする
「幸せって厄介だ。
ガンガン仕事をして毎夜好きに遊びまくっても
幸せなんて感じなかった。虚しさは感じてもね。
今はベッドから車椅子に移った瞬間、
ふっと安心する。
これが幸せか、って感じながら車椅子生活がスタートする。
厄介だな、こんなときに感じさせて、
と愚痴ろうと思っても、いないんだ、もう」
幸せって厄介なもんよ。
僕が超多忙だったのは、1990年代前半の数年かな。原稿執筆に、テレビ、ラジオ出演に、講演、イベントに追われ追われて、いつも時間が足りなかった。
この時代の僕の早業は、マイクロカセットテープレコーダーを片手に、書く代わりに口でしゃべることだった。調子が出たときは1時間で400字詰め原稿用紙40枚分ぐらいを吹き込んだものよ。当時の新幹線には個室があって、その個室を確保して吹き込むことがよくあった。
講演で大阪などに日帰り出張のときは新幹線で往復することにして、個室が臨時の仕事場になった。
締め切りを過ぎているのに、長編小説をまだ3分の1ぐらいしか書けていないことがあって、残りを新幹線で往復移動中に吹き込んだこともあったのよ。
短めの長編になったが、東京駅のホームでテープを渡すと、その担当編集者が、「奇跡だ!」と、狂喜してくれたこともあった。
だいぶ慣れてくると、事務所の車でテレビ局や講演会場、イベント先へ移動するときにも、気楽に悠々と吹き込みできた。おかげで、執筆の能率が上がったものよ。
ラブシーンを吹き込んでいるときなど、運転中の若いスタッフは困惑しただろうね。カセットテープレコーダーを打ち出の小槌のようにして、どうにか、この時期を乗り越えられた。
こんな状況だったのに、毎夜のように銀座、六本木、麻布十番などで飲みまくっていたのよ。午前2時、3時まで、ときには朝になるまで。そんな時間、どこにあったんだろうな。
勢いがあったということかな。明日は朝から原稿を書いて、夕方からテレビ番組の収録が2本もあるという日でも、それでもへこたれないで、深夜から飲みに行った。
どんなもんです、と自分が威張ってみせて、いい気になっていた。でもね、心の中は充実には程遠く、空虚なものが淀んでいたなあ。ときに、地底にユラユラ落ちていくような虚しさと心細さを感じたものよ。
幸せだ、と思ったことは一度もなかったな。
今は、訪問看護、訪問入浴介助を受けながらの車椅子生活。朝ベッドに起き上がってスマホでメールをチェックしたり、ツイートしたり、ラジオを聴きながら新聞に目を通す。一瞬、ふっと幸せを感じるのよ。こんな心の余裕を持てているってことが不思議で、うれしくって、ということだろうね。
ベッドから車椅子に移るときも、一瞬、さっと微風がよぎるように、幸せを感じることがある。
僕は今スマホとパソコンを合わせて、使用時間は1日6時間を上限にしている。毎日、そうか、今日はまだパソコンを5時間使えるか、じゃ、昨夜、寝ながら考えたクライマックスの場面をじっくり書けるぞ、と思える。
さらにそう思った瞬間に、心に幸せの小さな渦ができるんだ。こんなときに感じさせるなよ、と愚痴ったときにはもういないんだ、幸せってやつは。
関節が痛まないよう手足、腰を慎重に使うので、車椅子に移るのは一苦労なのに。けどまた、感じさせてくれる。それが幸せってものなんだよ。
親友の裏切りに遭って大きく学んだきみが1段上のステージに上がる
「親友に裏切られると、いきなり心臓を鋭利な
刃物で串刺しにされたように感じるだろう。
でも非を悔いて許しを乞うてきたら
許してやろう。
ただ、それまでと同じに遇するな。
1段下のステージに下げろ、
と言っているんじゃない。
親友の裏切りに遭って大きく学んだきみが
1段上のステージに上がるんだよ」
僕は親友の裏切りに遭ったことがない。これは自慢にならないな。鈍感で、裏切られても、ピンとこなかっただけかもしれないもの。
来る者は拒まず、去る者は追わず。この言葉を処世訓の1つにしている人間だから、どこか甘いんだろう。去っていった人たちは随分いるけれど、本当はみんな裏切って去ったのかもしれねえ。
こっちがそう思わないなら、それはそれでいいと思う。鈍感に徹するのも、世渡り術の1つじゃねえか。
高校時代には親友関係にあったけれど、卒業後は音沙汰なかったやつが、二十数年ぶりに前触れもなしにひょっこり現れたと思ったら、カネを貸してくれ、だった。それもかなりの大金だった。こっちが何も訊かないのに、事業資金だ、今、起業すれば大きく伸びるんだって、と説明したかと思ったら、いきなり土下座したんだよ。一生に一度のお願いだ、って。人に土下座されたのは生まれて初めてのことだった。
それまでに2人の人間から、土下座するやつは信用するな、と言われていたのよ。その場さえ切り抜けられれば、不誠実な人間ほど土下座をする。それも泣きながら哀れっぽく。元手は屈辱的な態度のみで足りる。
2人の人間の言うことは、ほぼ共通していたけれど、1人は受け入れていい土下座がある、と教えてくれた。
それは大迷惑をかけたことについて詫びを入れにきた場合で、そのときは受け入れていいそうだ。その土下座はその場を切り抜けるためではなくて、許してほしいという切なる願いの表れだという。
さて、僕は2人の人間から、土下座をする人間はダメだ、と聞いていたのではっきり断れた。
親友に懇願されて大金を貸した人
この話とは関係ないが、親友に懇願されて銀行預金を取り崩し、大金を貸した人を取材したことがある。何かの小説を書くときに役立つと思うので話だけ聞いてみたら、と知人からすすめられてのことだった。
いまだに小説の役には立てられていないけれど、その人の自分を裏切った親友に対する怨念と、それを持続させてきた負のエネルギーには、舌を巻いたね、おののきつつ。
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その人は親友には初めから返済の意思がなかったんだ、と悟ったとき、心臓を不意にグサッと刺されたような思いになり、絶対許せない、ってそれからの5、6年もの間、それこそ何千回叫んだかわからない、と言っていた。
何しろ、人生設計をメチャクチャにされたんだからな。ただ、その人には妻子がいたので、一から出直す覚悟があった。
20年も経つうちに堅実な生活を営める程度には立ち直ることができた。ところが、だ。子どもも独立し、そろそろ妻と2人で悠々自適の生活に入ろうかというときになって、その元親友が現れたのよ。粗末ななりだったが、ちゃんと働いている様子だった。
そして土下座したんだ。借りたカネは返せないけれど、何とでもしてくれ、と詫びを入れにきたんだな。
「今さらと思いましたよ。許すしかないでしょ。ただ、こいつを親友時代のときと同じに遇してはいけないと思いました。1段下のステージに下げるというのではなくて、私が1段上のステージに上がればいいんだ、と」
いい許し方だと思ったぜ。負の恨みを正に転換して自分を高めたんだからな。
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提供元:81歳の志茂田景樹「人生の9割は無駄」と語る理由|東洋経済オンライン