2022.02.17
「人生の目標は何だっていいんだ」と気づいた日|資本主義の論理から飛び出す「50代冒険家」
お金を使わぬ楽しさに目覚めてからは、海外旅行は民泊利用の格安旅三昧。台南では近所の豆花屋に入り浸って店のおっちゃんと片言の会話しながら酒をおごってもらったっけ(写真:筆者提供)
疫病、災害、老後……。これほど便利で豊かな時代なのに、なぜだか未来は不安でいっぱい。そんな中、50歳で早期退職し、コロナ禍で講演収入がほぼゼロとなっても、楽しく我慢なしの「買わない生活」をしているという稲垣えみ子氏。不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、連載第44回をお届けします。
退社してからの心細さにどう向き合う?
とにかく金をたくさん稼ぐ。さすれば人生勝ち。何の恐るることもなし……という、今にして思えば深みも面白みもオリジナリティもへったくれも何もない、なのに200%心の底から信じ切って、疑うことすらもうまったくコレッポッチも考えたこともなかったその鋼鉄のごとき人生の大目標を、「会社を辞める」という現実を前に、いきなりキレイさっぱり諦めなければならなくなったワタクシであります。
稲垣えみ子氏による連載44回目です。
この連載の記事はこちら ※外部サイトに遷移します
いやそこのあなた! こいつ馬鹿だなーなどと笑ってる場合じゃありませんヨ。何しろ人生100年時代らしいじゃありませんか。となれば誰だっていつかはこの問題にぶち当たるんです。
何しろ凡人の場合、それなりに金が稼げる時期など人生のほんの一部。なので、私のこの戸惑いは明日の、あるいは今日のあなたの問題かもしれない。ってことで、私がそこからどうあがいて今に至るのかの物語に少し耳を傾けていただければ幸いであります。
で、その心細すぎる現実を目前にした私が、取るものも取りあえずまずはどうしたかと言いますと、「卒業旅行」ならぬ「退社旅行」に出かけたのでありました。
行き先は、そうもちろん、イ・ン・ド♡
……と言うと、ナルホドかの有名なガンジス川の遺体埋葬などを見学してガーンとなって人生観を変えるというショック療法に挑みに行ったんですネ~などといつも勝手に勘違いされるんだが、現実はまったく逆である。
南インドでのリゾートで超ゼータク旅行
会社に身も心を捧げていた案外真面目なサラリーマンとしてはどうやっても実行不可能だった我が長年の夢、そう南インドのアーユルヴェーダ・リゾートに3週間ほど滞在するという、超ゼータク旅行に出かけたのであった。
アーユルヴェーダ。ご存じですかね? ま、女性なら一度は聞いたことがあるんじゃないでしょうか。インドに昔から伝わる体質改善療法で、わかりやすく言えば本格高級エステのようなものである。
美しい海辺のリゾートに長期滞在して来る日も来る日もマッサージ三昧。そして3週間後には見違えるようなピッカピカな体になってインドを後にする……という、もうなんともまさに絵に描いたようなとしか思えないゴージャス旅であります。
無論、それなりのお値段である。長期滞在となればなおさらだ。これから無給生活に突入する身でそんなとこ行ってる場合かよ! という気がしなかったわけではない。っていうか100%そんな場合ではない。
でも逆に、この瞬間を逃したら、これからの「ジリ貧」人生において、この長年の夢を達成できる日は二度と来ない確率が高いのもまた現実。ならば、それなりに過酷なサラリーマン生活に28年間耐え抜いた「自分にご褒美」として、まずは将来のことには一旦目をつぶり、何はともあれ人生の夢を1つ叶えることを優先させたっていいではないかと自分で自分を納得させたのであった。
で、どうだったかって?
いやーもうマジで最高でした。あれほどの贅沢を日本で味わおうと思えば数倍の値段を取られることは確実であろう。良いか悪いかは別として、経済格差、為替格差あってこその分不相応なゼータク体験であった。
とはいえ慣れぬ海外、しかも初インドで、しかも驚いたことにこの時代にあって日本人など右を見ても左を見てもどこにもおらず、インド人と欧米人に囲まれてめちゃくちゃな英語を恥も外聞もなく繰り出してなんとか日々を生き延びるという筆舌に尽くしがたい苦労はあったものの、それも含めて、コロナ禍の今となってはどれもこれもが夢幻のごとく懐かしい思い出である。
だがそのように楽しいことの一方で、さすがは日本とはことごとくスケールの違う悠久の国インド! 実際に行くまでまったく予想もしていなかったショッキングなものを目撃することになったのであった。
それは、「ゴミ」であります。
いやね、木のコテージが散らばる広大なリゾートの中は、どこもかしこも完璧なのですよ。美しい庭が整備され、掃除もどこまでも行き届き、まさに楽園そのもの。
でも一旦ゲートを出て幹線道路に突き当たると、否応なく目に飛び込んでくるのはまさかのゴミ・ゴミ・ゴミの洪水なのであった。自然豊かな地域のはずが、道路脇に穴を掘って埋めたプラスティックゴミが、ゴミの量が多すぎて埋めきれず、どんどん地上にあふれ出てきて収拾がつかなくなっているのである。
詳しいことはわからないが、いわゆる「燃えないゴミ」の処理システムが、想定を超えたゴミの増加に追いついていないものと思われた。
インドのゴミを見て考えたこと
道路だけではない。当地域の観光の目玉である、世界的にも有名な川下りのボートに乗ってきたというアメリカ人によれば、水面のそこいらじゅうにプカプカとゴミが浮きまくっていて、楽しむどころかどうにもやるせない気持ちになったということであった。
いやはや、これはもはやキレイとかキタナイとかいうレベルの話ではない。観光にも悪影響があることは間違いないし、何より街中にゴミがあふれまくっているというのは、もう本当に何とも言えない暗いヤサグレた気持ちを誘発するものである。
無論、そこらじゅうに細かいホコリが舞っているので健康にも良くないことは確実。そのような場所で暮らす人々のことを思うと、他人事ながら勝手に心が痛んだ。
当時、日本からインドに原発を輸出するという、個人的にはトンデモねえとしか思えない話が持ち上がっていたところでもあり、いやいやそんなものよりまずは日本の優秀なゴミ処理システムを輸出したほうがよほど人々の幸せのためになるじゃんよ……などと一人勝手にプリプリしていたんだが、そのうちフト、いや待て、そんな人様のことを上から目線であれこれ心配してる場合かという気がしてきたのである。
確かに、わが日本ではこのように街中にゴミが散乱しているということはない。だが、ゴミは消えてしまうわけではないのである。ゴミの燃えカスや燃えないゴミは処分場に埋め立てられ、先ほどチェックした令和元年度の環境省の資料によれば、二十数年後には、埋めたてる場所は日本列島からなくなってしまう計算であるという。
つまりわれらはうまいことをゴミを移動させ、見えない場所に持って行くことで、ゴミなどまるで「なかったこと」のように振る舞っているだけであって、それも早晩破綻しかねない。ってことは、結局はわれらもこの南インドと何ら変わらぬ状態にあるのではないだろうか?
そしてインドの風景を見ていると、なぜこのようにゴミがあふれかえるようになったのかは何となくわかるのだった。それは「豊かさ」のなせるわざである。
昔は住む場所も食べるものも、そこらじゅうでふんだんに育つバナナやココナツなどを利用して賄っていたので、すべては古くなれば自然に還っていったのだろう。
でも世界から集まってきたさまざまな便利な商品が当たり前に売り買いされるようになると、当然、そのほとんどは地元でとれたものじゃないわけじゃないので、自然には還らないのである。特に安くて便利で軽いプラステイックが押し寄せるエネルギーは凄まじく、深い穴を掘ってなんとかなる段階をたちまち超えてしまったのであろう。
で、われらとて結局は同じ問題を抱えているのだ。豊かさの中を生きる私こそ、まさにこの世にゴミを増やし続けている一人なのである。この道路脇にあふれ出たゴミは、私が出しているゴミと地続きなのだ。綺麗な川にゴミが浮いてて興ざめだワなどと口をとがらかしている場合かってことなんである。
突然浮かんだ「人生の目標」
……と、インド女性の極上マッサージを受けつつ、ヒマにあかせてそのようにつらつらと考えていた時、私の頭にあるアイデアが突然炎のごとく、キラーンと浮かんだのでありました。
私……人生の目標を見つけたかも!
そうだよ、これからの人生の目標として「プラゴミを出さない」ってことを一人勝手に掲げるっていうのもアリなんじゃ……? 何しろちょうど人生の目標なくしたとこだしさ!
……いやわかってます。なーんだ、って話ですよね。人生の目標というには、あまりに個人的な極小の話である。でも考えれば考えるほど、これはなかなかスンバラシイアイデアであるとワクワクしてくるのであった。
第1に、これは確かに、NPOを立ち上げるとか区議会議員に立候補するとかいうことに比べれば、まったく小さすぎる話である。でもだからこそ自分の胸一つですぐ実行できるし、それに何よりも、これは小さいようで、実はなかなかに野心的かつ革命的な目標なんである。
だって、ちょっと考えてみてください。例えばあなたが何かを買いたいと思ったとしよう。その時、あなたは何を基準にそれを買うかどうかを決めるだろうか?
普通は「品質」とか「値段」とか「好みに合うかどうか」とかですよね。でも私はこれから、何よりもその製品が「プラスティックかどうか」あるいは「プラスティックに包まれているかどうか」を購入の基準に高く掲げようというのである。
その製品がどれほど素敵だろうが安かろうが、そんなことは二の次三の次。早い話が、プラに包まれている時点で選択肢から外すことも辞さないというのである。そんなことやってる人、あるいはやろうとしている人を少なくとも私は知らなかった。
つまりは私はこれから、現代人の(たぶん)誰も歩んだことのない、未知の荒野を進む冒険を人知れず開始するのである。50歳にしての冒険家人生。いやー、考えただけでワクワクするじゃありませんか。
資本主義の論理から勝手に飛び出す
そして第2に、このアイデアが素晴らしいのは、これまで崇めてきた「お金」という、神のごとくわが人生を支配してきた存在からの脱却を意味するということである。
世のほとんどの人と同様、私もこれまでは常に「お買い得かどうか」がモノを買ううえでの大きな決め手であった。スーパーでは割安な品に手を伸ばし、ネットでは価格をじっくり比較して安いものを買うのが当然。それは、お金を少しでも溜め込んだものが幸せになれるという強固な人生観に基づくものであった。
なのにこれからは、それとは何の関係もない基準を人生に持ち込もうというのだ。それは大げさに言えば、世間一般を支配する資本主義の息苦しい論理から、一人勝手に飛び出す行為である。
ま、冷静に考えれば私一人がそんなことしようがするまいが世の中にはほぼ何の影響もなく、だからどうなんだって話ではあるが、そうであったとしてもわが人生を延々と支配してきた化け物のような存在を蹴っ飛ばすような、なんとも爽快な心持ちがせずにはいられなかったのである。
そして第3に、このアイデアの愛らしいところは、自分は決して孤独ではないという妄想で人生を満たしてくれるところだ。
だってですよ、私はこれから日本に帰り、おそらくは南インドを再訪することなど二度とない確率が高いわけだけれど、そのインドから遠く離れた日本のどこぞの店でプラスティックに包まれていないものを探し出して買おうと奮闘努力するたびに、南インドでお世話になった優しくお茶目なインドの方々を頭に思い浮かべ、その方々の幸せに私はほんのちょっぴりではあるがちゃんと貢献しているのだと思うことができるのである。
無論、先方はそんなこととはつゆ知らず、っていうか日本からやってきたアフロの珍客のことなど早晩忘れてしまうに違いないけれど、そんなことはどうでもいいのです。
少なくとも私自身が、これからお金を使えなくなり人からちやほやされることがゼロになろうとも、自分が日々生きていること、自分が行動することそのものに「意味がある」のだと思えることそのものが、人生の目標を失いかけた私にはこの上ない宝のように思えたのだ。
人生勝ち抜かなくたっていい!
そして何よりも、私がこのアイデアが気に入ったのは、それがあまりにも「小さな」そしてある意味「バカバカしい」ことだったということである。
通常、第2の人生どう生きるかって話になると、スキルを活かして再就職とか、起業とか、そういうのが勝ち組って話になりがちだ。そのために早いうちから資格を取ったりスキルアップに努めたり人脈を作ったりなどという「大きなこと」が推奨される。
もちろん人生の目標は人それぞれなのでそうしたい人はすればいいと思うが、個人的には、そんなふうに死ぬまで人生を勝ち抜いていくことなど考えただけでゲンナリだ。
っていうか勝ち抜けないし! だってこれからどんどんトシ取っていくんだし! っていうかそもそもそういうことをもう卒業したくて会社辞めたんだし! ……さりとてそのようにして金を稼がねば、人生100年時代を元気に駆け抜けることなどできようかというのもまた現実。私とてゲンナリしつつもそのような不安を抱かない訳じゃなかったんです。
でも、別にそんな大変な目標を掲げずとも人生を前向きに生きる方法はいくらでもあることに私は気づいてしまったのだ。「プラゴミ出さない」という個人的な小さな目標だって、やろうと思えば大変である。生涯努力しても死ぬまでに目標を達成できない可能性が高い。それほど困難である。
でも取り組むのは自由だ。何の資格もスキルも、そしてお金も不要である。つまりは私、まったくお金をかけずに、生涯かけてチャレンジするに値する目標を得たんじゃないですかね? しかも、やるかやらないかは自分次第。上司がバカだとか社会が悪いとか政治がなっとらんとか、そういう自分の力じゃどうしようもないことに一喜一憂するストレスもないんである。
いやいや、今から思い出しても、この瞬間の、パッと目の前が明るくなるような感じと言ったらなかったよ! もう何というか、地獄に仏というか掃き溜めに鶴というか、棚から牡丹餅というか……だって何しろこの時の私は、高級リゾートでマッサージ三昧というどこからどう見ても優雅な外見とは裏腹に、目の前はまったくの五里霧中だったのである。
確かに今このひと時は優雅だが、お金で夢を実現できるのもきっとこれが最後で、日本に帰ればこれから死ぬまでお金をチマチマ節約しながら何とか生き永らえるのみ。そんな人生のどこに楽しみが? 何をよすがに、何を自分のプライドとして生きていけばいいのか? つまりは私には何もない。空っぽ……と思っていたのだ。
いやいやいや、違うじゃん! お金がなくてもやれること、面白そうなこと、意味のあること、ちゃんとあるじゃん!
私、ちっとも空っぽなんかじゃない!
【あわせて読みたい】※外部サイトに遷移します
提供元:「人生の目標は何だっていいんだ」と気づいた日|東洋経済オンライン