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2022.02.09

「金がないと幸せになれない」と思い込む人の盲点|「幸せになるためのツール」を見落とす本末転倒


一人暮らしの父が、私のリクエストに応じて好物のミカンの皮をベランダで乾かしてくれた。すり鉢で擦りトウガラシと混ぜ薬味にする予定(写真:筆者作成)

一人暮らしの父が、私のリクエストに応じて好物のミカンの皮をベランダで乾かしてくれた。すり鉢で擦りトウガラシと混ぜ薬味にする予定(写真:筆者作成)

疫病、災害、老後……。これほど便利で豊かな時代なのに、なぜだか未来は不安でいっぱい。そんな中、50歳で早期退職し、コロナ禍で講演収入がほぼゼロとなっても、楽しく我慢なしの「買わない生活」をしているという稲垣えみ子氏。不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、連載第43回をお届けします。

ダライ・ラマ14世も驚いた「どうかしている」人たち

「人は金を稼ぐために健康を犠牲にし、健康を取り戻すために金を犠牲にする」

稲垣えみ子氏による連載43回目です。

稲垣えみ子氏による連載43回目です。

この連載の記事はこちら ※外部サイトに遷移します

これはダライ・ラマ14世が、「人間について驚かされるのはどの点か?」と問われた時の答えの一部だそうである(『LIFE SHIFT2(ライフ・シフト2):100年時代の行動戦略』より)。

いやー、かっこいいぜダライ・ラマ! 皮肉が効いたこの一文、まるでロックスターのようではないか。

そして、「買わない生活」を謳歌している私としては、イヤイヤまったくそのとおりだヨと大きくうなずかずにはいられない。われらは幸せになろうとして金を稼ぐ。しかし、金を稼ぐために幸せを犠牲にすることを厭わない。冷静に考えれば、控えめに言っても完全に「どうかしている」。

しかし圧倒的多数の人間が「どうかしている」ことにすら気づくことができない。かくも絶望的なまでに、われらはお金に支配されているのだ。お金がなければ太陽も上らないように考えてしまうのだ。

でも本当は、お金と幸せの間に相関関係はほとんどないのである。もう少し具体的に言えば、幸せになるために「使える」ツールは、もちろんお金もその中の一つではあるが、その他にも世の中に五万とあるのだ。

例えば、太陽、水、風、木や草や花、鳥、虫、友達、家族、笑顔、挨拶、歩くこと、走ること、スキップすること、ストレッチ、深呼吸、お寺や神社に参拝すること、風呂に入ること、料理すること、掃除すること……いやもうきりがないのでこの辺でやめときますが、このように無限にある「幸せになれるツール」の中で、お金とはその中のたった一つに過ぎない。

つまりは「お金があるかないか」だけで人の幸せが決してしまうという考え方は、どう考えても常軌を逸している。

結局、そのことに気づくか、気づかないかがすべてを分けるのではないだろうか。

というのはですね、「お金がなければ幸せになれない」とアタマから信じ込んでいると、先ほど書いたような、お金以外の幸せになれる4万9999個のツールにまったく目が行かなくなってしまうのだ。

あなたのすぐそばで、実に溢れかえるほどのたくさんのモノたちがあなたを幸せにしようとヤル気満々でスタンバイしていても、見る気のないものには何も見ることができない。気づかない。無視。いやはやこれこそ「もったいない」としか言いようがないと私は思うね。

なぜ「お金」がこれほど求められるのか

それでも、このようなもったいないことをした結果、あなたが全身全霊で追い求めている「お金」が手に入るのならいいんですよ。

でも何度もしつこく書いているように、これから爆発的経済成長なんてあるわけない。またこの度のコロナ禍や深刻な温暖化を考えても、人類の経済活動はすでに地球の限界を超えつつあると考えるのが普通だろう。その間にもわが国では人口は減り高齢化はどんどん進んで行く。つまりはわれらは、ことお金ってことに関して言えば、もう「詰んで」いるのだ。

今は将来世代からの借金でなんとかなっているかもしれないが、こんなこと永遠に続くわけない。そんな中でいつまでも「お金がなきゃ幸せになれない」などという狭い考えにとらわれていては、どう頑張っても幸せになれない確率があまりにも高い。

ってことで、当コラムもダライ・ラマとは行かぬまでも、そのお金の呪縛からたまたま抜け出すことに成功した人間として、その呪縛を解くための具体的な生活実践の方法を延々と書いているのであります。

とはいえ、ダライ・ラマ様ほどの影響力のある方がこの様な発言をされても、まだまだ世の大半の人はお金に囚われているのでありまして、つまりはそれほどまでに、お金とはものすごいパワーを持っているのだ。お金とはキリストとかブッダとかマホメットとかも負けそうなくらいの全世界的スーパースターなのである。

原因は色々あろうが、私が思うに、お金がこれほど信頼されるのは、何よりもまず、その圧倒的平等性によるのではないだろうか。人種・性別・生活・家柄・性格・能力その他にかかわらず、お金さえ持っていれば、誰もが平等にモノやサービスを手に入れることができる。そうお金は裏切らない! ゆえにお金さえあれば人生はなんとかなる、なんとでもなるーーそのように考える人が多いのは、ある意味当然のこととも言える。

そしてお金は「数字」なので、他人と比較しやすいというのも、その圧倒的パワーの源であろう。あの人は1000万円持っている。あの人は10万円持っている。そう言われれば、なんだか1000万円の人の方が10万円の人よりもずっと能力があるような、エライような、そんな気持ちになってしまう。

そんなふうに、身も蓋もなく、人の向上心や競争心や嫉妬心を煽っていくのがお金である。となると、お金があったら本当に幸せかどうかなんてことはどっかへ行っちゃって、とにかく「ある」か「ない」かで競争することが目的になってしまいがちなのである。

「お金の計算」ばかりしていた私

なんてことをゴチャごちゃ書いているのは、まさに私が少し前まで、もうまったくそこに囚われてきたからだ。

50歳で会社を辞めようと決めた時、最も悩んだのはまさに「今の高給がもらえなくなったら、たちまち幸せが遠くへ行ってしまうんじゃないか」という恐怖だった。

いやね、こう言っちゃなんだが、私は一般の方々よりは多少「覚醒」していたのですよ。

何しろ原発事故をきっかけにはじめた超節電生活で、ずっと「あって当たり前」「なければ死ぬかも」と信じ込んでいた冷蔵庫とか洗濯機とかエアコンとか掃除機とかテレビとかをことごとく手放すという荒技をエイヤーと成し遂げておりまして、その結果、これまでなきゃ生きていけないと信じ込んでいたものが、やってみれば案外そんなことはないという大きな気づきを得ていたのである。

そればかりか、むしろ電気などなくても生きて行けるどころか、ない方がよほど合理的だったり楽しかったり豊かだったりすることも多いということを身を持って体感していたのである。

でもですね、その覚醒した私にして、コトは「電気」ならそう思えたけど、「お金」となるとそう簡単には割り切れなかったのであります。

何しろ会社を辞めるということは給料がもらえなくなるということで、これまではどれほどイマイチな社員だったとしても、毎月決まった日にまとまったお金が口座に振り込まれるのが「当たり前」だったのが、これからは自分で一から仕事を取りに行かなきゃ待てど暮らせど一銭も振り込まれないというザ・非常事態を齢50にして迎えるのだ。それはもうマジで恐怖以外の何物でもなかった。当時はもう本当にお金の計算ばかりしていた。

でも真面目に計算してみれば、暮らしをものすごーく切り詰めれば、つまりは日々自炊で超粗食を食べ毎日同じものを着て極小の家で暮らす修行僧のごとき生活をすれば、それほどしゃかりきに稼がずとも年金が出るまでの期間を路頭に迷うことなく暮らしていけそうだということも分かった。

お金に代わる「人生の意味」とは

おおよっしゃ! めでたしめでたし……と言いたいところだが、私の本当の悩みはここから始まったのである。

問題は、「お金がなくなった時の自分に何が残っているのか?」ということであった。

例えばすごい芸術的才能があるとか、ものづくりができるとか、つまりお金がなくても何か人様を唸らせるような確固たるものが私にあれば、お金がなくとも前を向いて生きていけそうな気がするのである。

でも当時の私といえば、ただの会社員。新聞記者という固定的な仕事をずっとやってきたので、その意味ではある種の職人と言えないこともないが、取材したものをできるだけ短い時間に短い文章にまとめて訂正など出さずに済むように書くという特殊技能は、汎用性があるかといえばまったくない。

なので元新聞記者だからといって、何ができるかといえば何もできないのである。需要もなく、つまりはこれといって人様のお役にも立てないのである。

ってことはですね、私には一体何が残るのだろう。

そこで俄然重要になってくるのが、お金だ。

人に誇れるような能力がなくとも、お金さえあれば人はちやほやしてくれるのである。でも能力も金もないとなれば、ただの「何もない人」になってしまう。何とか死ぬまで細々と生き永らえるだけになってしまう。そんな人生にいったい何の意味が?

そう問題は、人生の意味なのだ。生きる目標と言ってもいい。ただ息をしているだけじゃなくて、何かのために、何かに向かってちゃんと前向きに生きているんだという確固たる何か。結局人が生きていくのに最大に必要なのはそれなのだ。

そうなのだ。私はいつの間にか、人生の意味を「お金」に頼りきって生きていたのである。そのお金が失われるときになって初めて、自分が本当は空っぽだということに気づいてしまったのだ。

いずれにせよ、空っぽのくせに負けん気だけは強い私は、このままおめおめと惨めな気持ちでただただ残りの人生を細々生き永らえることだけは絶対に嫌だった。そのためにはどうしたらいいのだろうと、もう本当に真剣に考えたのであります。

正直言って、最初に思いついたのは「頑張って一発当てて、再びたくさんのお金を稼ぐ自分になる」ことだったということを、ここで告白しておく。まったくどこまでもお金にこだわっていた私である。というか、お金以外のことがマジで考えられなかったのだ。

でもその「一発当てる」ための具体的な策があるわけでもなんでもなかったので、この案は一旦保留とした。ま、当然である。そんな夢物語はひとまず置いといて、給料がもらえぬ現実から目をそらさず、どうにか生きていくことが先決である。

お金という一神教からの脱却

で、次に思いついたのが、これだった。

「人生の目標を変える」

これまではなんだかんだ言って、要するに「お金を稼ぐこと」を人生の第一目標としてきた。でもその目標を果たせなくなった今となっては、お金以外の何かを人生の目標に据えるしかないと気づいたのである。

ま、こう書いてみれば至極当たり前の、誰でも考えつきそうな、つまりはわざわざ胸を張って発表するようなことでもないような気もしてくる。

でも今にして思えば、これは実に画期的なアイデアであった。

何しろ生まれてこのかた半世紀にわたり、お金という一神教を心の底から信じ切ってきた人間が、いわば「別の神」を見つけようというのだ。いや本当に見つかるかどうかはまだわからなかったが、別の神がいるのかもしれない、いや万一いないとしても、どうにかして「いる」ってことにしなきゃならんということを自ら認めたのである。

それはまさに人生の一大事であった。革命であった。そしてもちろん、こんなアイデアが突然降ってきたわけではなく、この時、私はすでに、ある具体的な、これからの私が死ぬまでの生涯をかけて追い求めるに値するような気もする、ある具体的な目標を見つけていたのである。

(つづく)

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【あわせて読みたい】※外部サイトに遷移します

結局のところ、「健康の最終結論」は3つしかない

「お金が健康を遠ざけていた」という衝撃の事実

モノのために「高い家賃」を払うのをやめてみた

提供元:「金がないと幸せになれない」と思い込む人の盲点|東洋経済オンライン

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