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2021.11.18

「孤独になる勇気」を持てる人と持てない人の大差|偽りの結びつきによる和は保たなくていい


本当に信頼できる関係に辿り着くために(写真:USSIE/PIXTA)

本当に信頼できる関係に辿り着くために(写真:USSIE/PIXTA)

行きたくない飲み会に参加する。時間の無駄な会議にも出席する。上司のパワハラを見て見ぬ振りをする──。これは、全員が納得し、満足している共同体と言えるでしょうか。

自分が異を唱えれば、孤立してしまうと恐れる人もいるかもしれません。しかし、本当に信頼できる関係は、倫理的意義を見極め、知性的な判断を続けた先に結ぶことができるはずです。数の多さに流されず、孤独を恐れない勇気が必要なのです。

大ベストセラー『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎氏の新刊『怒る勇気』より一部抜粋・再構成してお届けします。

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知性的な怒りは伝播する

三木清は「流行」について、次のようにいっている。

「習慣が自然的なものであるのに対して、流行は知性的なものであるとさえ考えることができるであろう」(『人生論ノート』)

ここで三木がいう流行とは新しいことを学ぶことである。

例えば、パワハラに対して抗議の声を上げることは、「知性的な怒り」であるといえるだろう。

かつては職場で上司が部下を叱りつけることは当たり前のように行われていた。上司が部下の失敗を指摘して指導するのではなく、一方的に怒鳴ったり、土下座をさせたりしたのだ。

今はこのようなことが表沙汰になれば、パワハラだと社会的な非難を浴びることになるが、今でもパワハラは認めないとしても大きな声を出して指導することは必要だと思う人はいる。かつて自分が若かった時は上司から叱られたが、叱られることで伸びたという人はいる。ある相撲の力士が大関に昇進した時、私が今日あるのは竹刀で叩いて鍛えてくれた親方のおかげだといった。

しかし、その親方は知らないのだ。他の同期の力士はそのような指導を受けることで勇気をくじかれ、早々に現役を引退したことを。もともと力があったからこそ、多少叩かれ、ひどいことをいわれても力を伸ばすことができた。もしも力がなかったらたちまち相撲を続けることはできなくなっていただろう。反対に、適切な指導を受けていたら、もっと早くに力を発揮できただろう。

あるスポーツコーチは、選手に嫌われても言うべきことは言わなければならなかったとパワハラ以外の何物でもない暴言を吐いて指導していた。なぜそのような目に遭っても選手が抗議しなかったかというと、コーチに従って練習すればいい結果を出せるからである。だから、コーチのパワハラを甘んじて受け続けたのだ。

しかし、結果を出しさえすればコーチが何をしても許されるのかというとそうではない。人間の尊厳を傷つけられるようなことには断固抗議するべきである。

パワハラは駄目だという考え方は伝統的な習慣ではなかった。しかし、パワハラという言葉が流行することによって、それが駄目だという考え方も広まったのである。それが上司は部下を叱るものだという習慣を打ち破った。

職場以外での付き合いについても、流行が習慣を変えることができる。転勤や単身赴任についても問題にされ始めている。子どもが生まれたばかりなのに、また新居を建てたばかりなのに転勤を命じるのはおかしい。

三木が言うような知性的な流行の始まりは自然発生的なものではなく、誰かがおかしいのではないかと声を上げることで伝わっていくのである。

孤独を恐れるな

孤独を恐れる人は、多数者の考えに流されず他者の期待に反して行動する勇気を持てない。

他の人が皆上司に従順なのに、自分だけが違う行動をすれば孤独になるのではないかと恐れるのである。皆が楽しみにしている行事に自分だけが参加をしないといえば、上司の覚えがよくなくなるとか、仲間から外されるのではないかと恐れる。

今日は仕事を早く切り上げて帰ろうと思っても、他の人が仕事をしているとなかなか先に帰るとは言い出せないということもあるだろう。

上司が部下に対して理不尽な要求をしたり、上司の言動が不正であることが発覚したような時にも、それを上司に訴え改善を求めると職場で自分の立場が悪くなって孤立すると考えて黙ってしまうことがある。

このような意味で孤独になることを恐れるので、もしも自分が声を上げると職場の和を乱すのではないかというようなことを考えて黙ってしまうのである。しかし、声を上げた時、実際どうなるのかはわからない。

どのような共同体であれ、誰も何の疑問も抱くことなく同じ考えを共有していれば、その共同体には一体感、連帯感が生じるかもしれない。子どもが親に反抗せず、親に理想的に従順であれば、親子の間に軋轢が生じることなく、親子関係は安定するようにである。

しかし、表面上は皆が仲のよい共同体は、偽りの結びつきでしかない。時に、この結びつきが人為的に作り出されることもある。他の国家に対してであれ、ウイルスに対してであれ憎しみを煽ることで、国民の間に一体感を作り出す。地震などの災害が生じた後でも国民が一丸になって国難を乗り切らないといけないと勇ましく叫ぶ政治家がいる。

スポーツもまた同じ目的のために使われる。オリンピック憲章に反することを知らない政治家たちが国威発揚のためにオリンピックを利用する。

三木は『語られざる哲学』の中で、イエスの言葉を引いている。

「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな、平和にあらず、反って剣を投ぜんために来れり。それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑嫜より分たんためなり」

これは『マタイによる福音書』から引かれたものである。「平和」ではなく「剣」を投じるため、親子、嫁姑を分かつため、この地にやってきたとは何と激しい言葉か。

子どもが何の疑問もなく親に従っていれば、表面的には何の問題もないよい親子に見える。しかし、子どもが親から、親が子どもからどう思われるかを気にして、言うべきことがあっても言えなければ、よい関係が築かれているように見えても、この親子は真に結びついているとはいえない。

反対に、自分の考えを率直に、親の気持ちを忖度せずに言えば、関係がギクシャクするかもしれない。それがイエスのいう「剣を投じる」ことであり、親と子どもとの結びつきを「分かつ」ということの意味である。

表面的には仲がよくても、結びつきが真のものになるためには、このような過程を経なければならない。

孤独を恐れ黙ってしまうと悪も蔓延る

親子関係だけでなく共同体の中にあって、たった1人でもそれは違うのではないかという人がいれば、その人によって剣を投ぜられた共同体は一体感、連帯感を失う。しかし、孤独を恐れ黙ってしまうと、職場の悪も社会の悪も蔓延ることになる。

このような時、社会化された感情に動かされているのである。しかし、その場の空気に左右されないことが必要である。

「孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ」(『人生論ノート』)

先にも見たように、知性は感情のように煽ることはできない。なぜなら、知性は個人の人格に属するものだからである。

たとえ自分だけが周囲と考えを異にしても、社会化された感情に動かされることなく、自分の人格、知性、内面の独立を守り孤独に耐えなければならない。

「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生じる」(前掲書)

真に怒ることについて、三木は次のようにいっている。

「孤独の何であるかを知っている者のみが真に怒ることを知っている」(前掲書)

孤独を恐れる人は、職場の不正があるのを知っていても、それを指摘しない。そうすることで職場で孤立することを恐れるからである。

上司の不正を暴こうとすれば、職場の和を乱すと批判されるかもしれない。不正を告発すれば誰からも支持されないかもしれない。孤独になることを恐れて何もしないで、自己保身に走り不正を見逃したり、不正に加担したりすれば孤独にはならないが、真に怒るために孤独にならなければならない。

このような意味の孤独は、先にも見たように、人の中にあって注目されたいのに注目されないという孤独感や、1人でいる時に感じる寂しさとは違う。多分に感傷的で、時に、三木の言葉を使うならば、「美的な誘惑」「味(あじわ)い」がある孤独ではない。三木がいうように「孤独のより高い倫理的意義に達することが問題であるのだ」(前掲書)。

孤独になる勇気が他者との結びつきを生む

真の怒りは、感情というよりも、むしろ知性に属するのである。たとえ自分を支持する人が誰1人おらず孤独になったとしても、そのように孤独になることに「倫理的意義」があると知的に理解できる人であれば孤独を恐れることはない。

職場においても、家族と同じく、真の結びつきができるためには、誰も何も言わなければ表面的には波風が立たないかもしれないが、そのような結びつきに一石が投ぜられなければならない。

自己保身に走り不正に目を瞑ることで最終的に昇進することを願っているような人は、自分のことにしか関心がない。そのような人は信頼を失うだろう。自己保身に走り不正に目を瞑ることを支持する人も中にはいるかもしれないが、すべての人が支持するとは思えない。

人はこのような状況の中で本当に孤独になるのだろうか。

共同体のことを考え、たとえ自分にとって不利益になることが予想されても言うべきことを言えること、するべきことができる人を、たとえ自分自身ではできなくても、あるいは、自分ではできないからこそ支持する人はいるはずである。

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そのような人がいると信頼することは容易なことではない。人と人とが結びついていることが「仲間」(Mitmenschen)であるということの意味だが、誰をも最初からそう思えるわけではない。

自分が上司や職場の不正を告発することを他の人が支持してくれないどころか、不正を告発しようとしていることを上司に告げ口する人がいるかもしれない。

そのように疑心暗鬼になっている人たちは他者を「敵」と見なしている。他者は誰も信じられない。そう思った人は孤独になる勇気を持てない。

それでも、この段階を経て、自分を支持する人がいるかもしれないと思った時、他者と結びつくのである。

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提供元:「孤独になる勇気」を持てる人と持てない人の大差|東洋経済オンライン

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