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2021.05.13

徳川家康「田舎町・江戸を本拠地に選んだ」理由|家臣も驚愕!なぜ辺鄙な土地を選んだのか?


徳川家康は「未開の地」と言っても過言ではない江戸を、なぜ本拠地に選んだのか?(写真:metamorworks/PIXTA)

徳川家康は「未開の地」と言っても過言ではない江戸を、なぜ本拠地に選んだのか?(写真:metamorworks/PIXTA)

1590年、天下人である豊臣秀吉から関東への国替えを命じられた徳川家康。本拠地候補には、当時すでに都市として完成していた小田原や鎌倉もあった。しかし、家康が選んだのは江戸であることは周知の事実。当時、辺鄙な田舎町でしかなかった江戸を家康が選んだ理由とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。

豊臣秀吉が天下統一事業の総仕上げとして、小田原の後北条氏の攻略に成功したのは、天正18年(1590年)7月のことである。このとき小田原攻めに加わっていた徳川家康に対し、秀吉がこんな言葉で関東への移封(国替え)を命じたという。

「関東を貴殿に与える代わりに、それまでの貴殿の領地はもらう。この小田原は東国支配の重要地であるから、家臣の中から信頼できる者を選んで守らせ、貴殿は江戸に本城を築かれるのがよろしかろう」

家康は、この言葉を聞いて愕然としたに違いない。江戸といえば、三河や遠江を本拠とする家康にとって、政治・経済の中心である京大坂から遠ざかるばかりか、当時の江戸は葦の生い茂る低湿地帯がどこまでも広がり、わずかに寒村・寒漁村が点在するだけの未開の地であったからだ。

このときの秀吉の命令は断固たるものではなく、家康にはこの小田原、または鎌倉のいずれかに本拠を置くこともできたという。しかし家康は、小田原や鎌倉がすでに十分な都市機能を備えているにもかかわらず、それらには目もくれず、秀吉の命令どおり江戸に本拠を移すこととする。

一体、なぜ家康はこのとき江戸を選んだのであろうか。本稿ではそのあたりの謎について迫ってみたいと思う。

家臣も驚いた「江戸」への移封

秀吉が家康に対し関東への移封を命じた時点で家康は、三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5カ国を領する実力者であった。それを召し上げ、替わりに後北条氏の旧領であった関東8カ国(武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野、常陸)を与えようというのである。

確かに石高だけを見れば150万石から250万石へと大幅に増えることになるので家康の面目は立つのだが、中央から遠ざけられることによる影響力の低下は否めなかった。

秀吉がそうまでして家康を自分のそばから遠ざけたかったのは、家康が自分に匹敵する実力者だけに、「いつかこの男に寝首をかかれるかもしれない」と怖れたからにほかならない。おそらく秀吉は、剣呑な敵対者を少しでも遠くへ追いやり、その隙に豊臣政権を盤石なものにしたいと考えたのであろう。

家康が関東への移封を命じられたとき、家康の大方の家臣たちは、ご主君は小田原か鎌倉のどちらかを本拠と定めるに違いないと読んでいた。小田原は後北条氏の本拠地として長く栄えており、今回の小田原攻めにおいても城自体はほとんど無傷であったのも好材料だった。

一方、鎌倉はかつて鎌倉幕府が置かれており、武士にとっては「聖地」のような場所だった。小田原か鎌倉か、家臣たちが注目するなか、家康が選んだのは、まさかの江戸であった。

このときの家康の決断に対し、家臣たちは一様に驚愕した。家臣の一人の石川正西が著した『聞見集』には、「どうしてそんな所にと、誰もが手を打って驚いた」とある。

前述したように当時の江戸は低湿地帯が多いごく辺鄙な土地で、そんな土地に新たに城や町をつくるのは至難のわざであると誰もが考えたのである。

しかし、家康の考えは違っていた。小田原も鎌倉も山に囲まれており、敵に攻め込まれにくい半面、そのことが都市としての発展を阻害していると見たのである。その点、関東平野のまん中に位置する江戸は海に面しているうえに関東に幾筋も流れる川の終着点でもあった。

物資を運搬するのにこれほど都合がよい土地もなかったのだ。大坂の発展を見るまでもなく物資の流通が都市の発展に直結すると考えていた家康は、これまで氾濫を繰り返すため厄介このうえないと思われていた江戸の河川さえ制することができれば勝算はある、とにらんだのであった。

こうした目論見のもと江戸に入った家康は、当時は粗末な城であった江戸城の改築工事から着手した。必要な建築資材は、城から江戸湾まで水路を建造し、その水路を利用して搬入した。

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同時に城下町を建設するため今日の皇居付近まで食い込んでいた海の埋め立てにも乗り出した。駿河台の南端にあった神田山を切り崩し、その土を充てた。このとき埋め立てられたのが現在の日比谷公園や新橋周辺である。

家康は文禄3年(1594年)には、当時江戸市中にたびたび洪水被害をもたらしていた利根川の付け替え工事にも乗り出す。当時は江戸湾に流れ込んでいた利根川の流れを太平洋に面した銚子へと移すというかつてない大工事で、これを31年もの歳月をかけて完成させている。

この利根川の付け替え工事は、江戸における洪水被害を防いで湿地帯を農作地に適した土地に変えるばかりか、江戸と太平洋とが直結することになるため利根川を水運の大動脈として機能させられるという利点もあった。

江戸を本拠地に選んだのは「大正解」

家康は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利すると、諸大名に河川改修や上下水道、道路、掘割運河などの「インフラ整備」を命じた。世にいう「天下普請」の発令である。

これには諸大名の経済力を削ぐ目論見もあったという。諸大名は家康に忠誠心を示すため、それこそ死にもの狂いで工事にあたったようである。

こうして江戸の都市化が着々と進むなか、家康は元和2年(1616年)にその生涯を閉じた。おそらく最晩年の家康は、100年、200年先を見据えて江戸を本拠地とすることに決めた自らの判断に満足を覚えていたに違いない。

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提供元:徳川家康「田舎町・江戸を本拠地に選んだ」理由|東洋経済オンライン

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