2021.04.05
現代の狩猟採集民?都会でもできる「採取生活」|春本番!「食べられる野草」が教えてくれること
不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、今回は春の野草採取についてお伝えします。中でも「ヨモギ」がおすすめだとか……(写真:kikisorasido/PIXTA)
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疫病、災害、老後……。これほど便利で豊かな時代なのに、なぜだか未来は不安でいっぱい。そんな中、50歳で早期退職し、コロナ禍で講演収入がほぼゼロとなっても、楽しく我慢なしの「買わない生活」をしているという稲垣えみ子氏。不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、連載第2回目をお届けします。
「生活」に関心の薄いビジネスパーソン
前回、まずはわが「買わない生活」の一例として、100円で最高のご飯を食べてますと自慢させていただいたんだが、もちろん生活とは食べることだけではない。「衣食住」という言葉があるように、身なりを整え、おいしいものを食べ、快適な家に暮らす――と、広く人生全般にわたるものであります。
稲垣えみ子氏による連載第2回目です。 ※外部サイトに遷移します
で、その広く全般にわたり、私は「買わない」でキャッキャと暮らすノウハウを江戸の片隅で1人せっせと蓄積しておるわけでして、当連載では今後もその自慢話をせっせと書いていこうと張り切っているわけですが、いきなり編集部の方から、男性読者は「衣」「住」に関心がない人が多いので、せめて最初の数回は「食」のことを書いてほしいとの切なる依頼である。
……なるほど、そうなんですかね?
いや確かに、改めて考えると、性別を問わずビジネスパーソンの方々はそもそも「生活」そのものに関心が薄いのやもしれぬ。そうだよ。約30年会社員をしていた自分を振り返っても確かにそうだった。
何しろ生きていくにはお金が必要で、会社の売り上げで給料をもらっている以上、社内でも社外でも仁義なき競争をエンドレスに繰り広げざるをえない。そうなるといつしか「人生は勝つか負けるか」という単純な二分法に脳内が染まる。
つまりは、人生なんぞ勝てばどうにでもなるのであって、ちまちまと生活(衣食住)を知恵と工夫で面白くしようなんて考えてるヒマがあるなら、少しでも自らの評価や社の業績を上げる算段を考えたくなる。
ましてやお金を「使わない」工夫など、人生の敗者が泣く泣く考えることで、そのような惨めなことにならぬように頑張って働き稼ぐのがビジネスパーソンたるもの……などと当たり前に考えている方が圧倒的に多いのではないだろうか。
しかしそのような方々にも1つ、心にとどめておいてほしいことがある。
いくらバリバリのビジネスパーソンであったとしても、いずれ否応なく「生活」と向き合わざるをえないときがくるということだ。
それは、老後である。
定年がどれほど延長されようと、あるいは定年のない経営者であろうと、いずれ「ビジネス」の一線から退く日はやってくる。そうなったら誰もが限られたお金で生きていかねばならない。何しろ悪いことに日本はすでに借金まみれ。
しかも人口は減り続け、高齢者は増え続けるらしい。わずかな稼ぎ手で山のような老人を支えなきゃいけない時代なのだ。年金どころか公的な介護も医療も当てにできないやもしれぬ。で、そこへ持ってきてのまさかの人生100年時代! 長生きすればそれだけ金がかかるんであって、さらには病気になったり体が動かなくなったりの心配もしなきゃならん。
結局、生活が豊かになればいい
つまりはですね、お金がいくらあったって足りないのだ。人生は競争に勝てばOK、お金さえあればなんとかなるなんていうビジネスパーソン発想のままでいたら、100年人生の長い長い後半戦を、こんなはずじゃなかったと唇をかみ人を恨み社会を恨み、うじうじと生き、死んでいく可能性がものすごく高いという絶望的な世界がわれらの目の前には広~く広がっているわけです。
しかーし! そこから抜け出す道はちゃんとあるんだなこれが。
ビジネスパーソンの方々は、お金を稼ぐことには熱心だが、実は使うことには案外ドシロートであるということを私は知っている。何しろ私もそうだった。でもお金はそのままでは煮ても焼いても食えないわけで、使ってナンボなんです。
で、結局はお金とは「生活」を豊かにするために使うべきものなのだ。知ってました? 私は正直知らんかったよ。50歳でエイヤアと会社をやめていきなり給料がもらえなくなる生活に突入し、あれこれ苦闘するうちにそのことにやっと気づいた。
いや、うれしかったなあ。だって逆に言えば、結局、生活が豊かになればいいんじゃないだろうか。つまりはうまいもん食って似合うものを着て快適な家で暮らせればよし。信頼できる友達がいて生涯をかける趣味や楽しみがあればさらによし。そこにお金をどれだけ使おうが使うまいが、結果よければすべてよし。使いたい人は使うたらよろし。
でもね、正直、その結果に至るまでにお金の多寡はほぼ関係ないというのが「買わない生活」を極めつつある私の結論で、当然のことながらこのような結論に至った人間ほど強いものはない人生100年時代!
……と、ここまで言ったら多少は興味を持っていただけたでしょうかビジネスパーソンの方々。
正真正銘の「買わない食卓」
ということで、長すぎる前置きになったが、編集部の方のリクエストどおり、今回も食べることについて書く。前回は100円とはいえお金を使った献立だったが、今回は正真正銘の「買わない」食卓だ。
東京も暖かくなってきて、桜も満開となった。そう春といえば桜……というのが世間様の常識なんだろうが、今の私には桜以上の楽しみがありまして、春といえば野草採取! なんである。
野草と言ってもただの野草じゃない。食べられる野草。それをその辺で摘んでくる。もちろん泥棒はいけないので、人様の庭などに勝手に入り込んではいけない。近所のそこらの空き地で、必要なものを採取し、それをその日のおかずにするのだ。
……と言うと皆さん結構驚くんだが、東京のど真ん中であっても案外なんだかんだと採取できるものなのである。これが地方ならもっと採取は容易で、うまいこといけば、春はコメとみそさえあれば何も買わずとも1カ月くらいは余裕で食べていけるはずであります。
なーんてことをいくら力説しても、いや別にそこまで生活に困ってないし……というセリフが聞こえてきそうだ。
でも今あなたがどれほどのお金持ちであったとしても、ぜひ体験してみることをおすすめする。なぜならこの体験は、食べていくとはどういうことか、おいしいとは何か、つまりはお金と豊かな食生活の関係について、ひいてはお金と幸福の関係性について、はたしてお金があれば人生は豊かなのか、お金がないと人生は惨めなのかということについて、あなたのそれまでの価値観をグラグラと揺さぶること確実だからである。
ちなみに、私が初めて近所で採取した野草は「ヨモギ」だ。
長い間、ヨモギという名は聞いたことがあっても実物を見たことがなかった。何しろヨモギといえば「ヨモギ餅」しか知らず、和菓子の風味付けに使う緑のコナみたいなもの? などと勝手に決めつけていたのである。
初めて現物を見たのは会社員時代で、出張先の沖縄で公設市場を見学に行ったら普通に八百屋に売っていた。おおヨモギって野菜だったのか、これは珍しいと喜んで買って帰った。でも飛行機で持ち帰る間に見事にシナシナになった。仕方がないので沖縄風に雑炊に入れて食べたが、可もなく不可もなく、ふうんというようなお味であった。
で、それからしばらくたったある日、会社帰りに自宅へと向かう坂道を登っていて、ふと道路脇の街路樹の下を見たら……いや、これは、どう見てもあのヨモギなんじゃ……? 恐る恐る先端をちぎって香りを嗅いでみると、いやまさにヨモギ以外の何物でもない! しかも今採取したばかりだからフレッシュそのものである。
私たちは無料のゴチソウに囲まれている
ということで、ドキドキしながら先端の柔らかそうなところをちぎって持ち帰り、天ぷらにして食べた。
いやー……なにこれ? 超おいしいんですけど? ほんのりした苦味と鼻腔を満たす爽やかな香り! こんなん食べたことないよ!
ヨモギ天丼。付け合わせのユズも、近所の木から落ちてきたのを拾った(写真:筆者提供)
ということで、それ以来しょっちゅうヨモギを摘み帰っては、翌日の弁当にヨモギ天丼を持参してホクホク食べ続けた。野草というものは一度目につくと、自分の目が「野草スコープ」になってしまい、そこらじゅうのヨモギがこれでもかと目に飛び込んでくる。そうなってみると、ヨモギとはもうそこらじゅうに嫌というほど元気に生えまくっているのだった。
つまりは私はこれまでもずっと、このような無料のゴチソウに囲まれて生きていたのに、そのことにまったく気づかぬまま半世紀近く生きてきたのだ。
そう気づいたとき、私の価値観は大きく揺さぶられた。それまでずっと、世の中とは、金であれモノであれ「あるかないか」だと思っていたが、実は「気づくか気づかないか」だったのだ。気づいたものの前には無限の宝が広がっている。しかし気づかぬものの前に広がるのは無限の荒野なのである。
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提供元:現代の狩猟採集民?都会でもできる「採取生活」|東洋経済オンライン