2017.08.14
元プロボクサー「余命1年宣告」で見た地獄|なぜ2人の医師は見過ごしたのか
なぜ医師は見過ごしてしまったのでしょうか。闘病生活について聞く(撮影:今井康一)
信頼していた医師たちに振り回され、突然の膀胱がん余命1年宣告。夫婦2人で立ち向かい、転移の可能性が高い術後2年の山を乗り越えた。率直な筆致で思いや行動をつづったがん闘病記『見落とされた癌』を書いた元WBA世界ミドル級チャンピオンの竹原慎二氏に聞いた。
─最初の異常は頻尿でした。
2013年の頭ごろに気になりだした。十数年来懇意にしてたA先生のクリニックで検査してもらったら、膀胱炎だと。でもその後改善せず数回検査をしたけど、やはり問題なし。秋ごろには排尿時に激痛が走り、年末に報告すると「チャンピオンはお酒飲みすぎだよ」とか「チャンピオンは大げさだ」と言って、前立腺炎、前立腺肥大と診断されました。
そして大みそか、血尿が出るに至って、総合病院のB先生を紹介された。A先生には結果的に1年間放置されたことになる。そしてB先生の元で尿細胞診を受けたんだけど、その検査結果はほったらかしにされていたことが、後々わかりました。
竹原慎二(たけはら しんじ)/1972年生まれ。広島県から16歳で上京、1989年プロデビュー。1995年日本人初のWBA世界ミドル級チャンピオン。翌1996年初防衛戦で敗退、網膜剥離で引退。プロ通算25戦24勝1敗。2002年7月T&H竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジムを開業。(撮影:今井康一)
腫瘍は2.5センチメートルに
─検査結果を伝える次回予約もなかった。1軒目、2軒目と病院側の対応がなおざりすぎませんか。
様子を見ましょう、とだけ。A先生からB先生に、大したことないのに僕が大騒ぎしてる、みたいな伝言があったんじゃないですか。当時はまだ42歳だったからまさかがんとは疑わなかったのかも。
検査後1カ月して大量の血尿が出た。こちらから受診に行って、そこでがんが判明しました。「よく調べたら、クラス5(陽性)と出てるよ」って平然と。何が何だかわからなかったですよ、エーッ、どうして?って。1年前から不調を訴えてたのに、何で今頃?って。結局、腫瘍は2.5センチメートルで筋層まで達する進行したがんでした。
─2014年2~3月はまさにジェットコースター級の日々でした。
突然膀胱がん宣告を受け、以降、浸潤してない・いやしていた、セカンドオピニオン、サードオピニオン、膀胱温存できないか・いや全摘しかない、余命1年宣告、ステージ4・5年生存率25%を告げられ、東大病院でのファーストオピニオン、リンパ節転移発覚、B先生の病院入院前日に東大病院へ変更等々、日々事態が二転三転しましたね。この2カ月で何度落ち込み、泣いたことか。B先生には「本当にこの人に託していいのか。でももう時間がない、任せるしかない」と入院予約したわけです。
そこへジムを共同運営する畑山(隆則)から「そんなやぶ医者やめろよ」と連絡があって、それをきっかけに東大病院へ行く段取りが付いた。それまでは免疫療法にしろ抗がん剤にしろ、何かにつけ医者はエビデンスがどうのこうのと上からガツンと言ってきた。ところが東大病院では同じ目線の高さで話してくれた。抗がん剤や尿路変更などの質問に懇切丁寧に答えてくれ、「この病院で治療を受けたい」と思いました。
もうやるしかない、ってだけだった
─抗がん剤の副作用や手術後の痛みと闘われましたが、がん宣告以降、最もつらかったことは?
治療に入る前までがいちばんつらかった。抗がん剤が始まったときにホッとしたんです、やっと治療に入れると。あまりに紆余曲折すぎる過程、かかりつけ医だったA先生の横やり、そのときの精神状態がいちばんキツかった。こんなデカい図体して何度も泣いた。免疫療法をはじめ女房が一生懸命情報を集め、これはというものを勧め、力になってくれた。子供も2人いる。もうやるしかない、ってだけでしたね。
─ボクシングの試合前は常に恐怖心との闘いだったそうですが、2014年6月の手術前も同じでした?
東大病院に手術入院するに際し「いよいよ決戦、絶対に勝つぞ」と思いました。でも違うのは、ボクシングは自分の力。手術は僕からすれば他力本願。どっちが緊張するかと問われたら、そんなのボクシングに決まってるよと。手術は任せるしかないから。下手すれば手術中に死ぬ可能性もあるし、信じて任せるしか。でも、何としても勝たないと、と思いました。
─本に「僕はネガティブなタイプ」とあります。「もう終わりだ」と天を仰ぐ場面も何カ所か出てくる。でも効きそうと思う療法はとにかく試すポジティブな患者でした。
免疫療法にしてもビワの葉療法にしても食事内容の変更も、女房がとにかくネットや本で調べまくってくれたんですよ。僕自身は現役時代からネガティブ思考で、試合が決まると「絶対勝てない、どうしよう」と練習に向かったタイプ。でも今回は負けイコール死でしたからね。
免疫力を高めるには笑うのが一番、と女房が調べてきて、お笑いのDVDをいっぱい借りてきて無理やり笑ったりしてた。手術後の病理検査の結果でいい報告を受けたとき、やっと自然に「え~、マジですか!」と笑えた。残りの人生、作り笑いでも何でも、笑っていたほうがいいな、笑っていかないとダメだなと思った。
─手術後3年経って、新膀胱との付き合いには慣れましたか?
そうですね。新膀胱は小腸を50センチメートル切って袋状の膀胱にする最先端の方式。尿意はなく、2時間おきの排尿など管理が大変です。でも最近はたまったのを感じるようになった。初めは新膀胱がまだ小さいので2時間おきだった排尿も、今は夜は3時間おき。トイレで2分くらい目いっぱい腹圧かけて、脳の血管切れるんじゃないかってくらい踏ん張る。細切れ睡眠にも慣れました。定期検診は半年ごと、仕事は完全復帰。ゴルフもよく行くようになりました。
何年生きるかではなく、どう充実して生きるかを考える
『見落とされた癌』(双葉社/272ページ) クリックするとAmazonのサイトにジャンプします
─今、大事にしてることは?
今の僕は何年生きるかではなく、どう充実して生きるかを考えるようになった。大事にしているのは「食事」「運動」「笑う」です。食事は添加物を避け、有機野菜中心の和食に切り替えた。体は冷やさない、そして免疫力を高めるためにいっぱい笑う。女房が調べてきてよさそうな療法は、とにかく試しました。手術前に本気で生活を変えましたから。手術後の病理検査の結果で、骨盤リンパ節に2カ所転移していたがんが消えていて、抗がん剤がよく効いたのと何らかの免疫機能も働いたんでしょうね、と先生に言われましたよ。
闘病中に書いた「退院したら達成すべき10個の目標」は、ホノルルマラソンは走ったし、広島カープ戦の始球式も出たし、旅行も行ったし、半分以上実現した。でも目標はクリアしてもどんどん作っていかないと。達成したら死んじゃいそうな気がするんです。僕は強い人間じゃないですから(笑)。
中村 陽子 :東洋経済 記者
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