2023.07.11
ヒトだけが「他人との比較」に執着するのはなぜか|人類に刷り込まれている不公平への拒否感
自分の財産と他人の財産を比べるという傾向は、人間の心理に刷り込まれているようです(写真:buritora/PIXTA)
私たち人類が過酷な環境を生き延び、さまざまな問題を解決し、世界中で繁栄することができたのは、「協力」という能力のおかげだ。
だが、人間のみならず、多くの生物が協力し合って生きている。そもそも多細胞生物は、個々の細胞が協力し合うことから誕生したものであり、生命の歴史は協力の歴史ともいえるのだ。
一方で、協力には詐欺や汚職、身内びいきなどの負の側面もある。それでは、私たちはどうすればより良い形で協力し合うことができるのだろうか?
今回、日本語版が6月に刊行された『「協力」の生命全史』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする。
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「お金で幸せを買えますか?」
お金で幸せを買えるかどうか聞かれたら、あなたは何と答えるだろうか?
既存のデータが示すのは、2つの対照的な答えだ。大規模な調査では、社会で相対的に裕福な人のほうが貧しい人よりも幸せだという結果が得られることが多いから、そこから考えると答えはイエスかもしれない。
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しかし、多くの欧米諸国では過去50年で1人当たりの収入は大幅に増えたにもかかわらず、市民の平均的な幸福度はほとんど変わっていない。この結果からは、冒頭の問いへの答えはノーと言えそうだ。
この明らかな矛盾は「イースタリン・パラドックス」と呼ばれている。この奇妙な傾向を最初に記載した教授にちなんだ用語で、次のように説明することができる。「幸せを買うのはお金そのものではなく、自分と似たような人々よりも多くお金をもっているという認識だ」。
さらに言うと、仲間よりも財産が少ないという考えは、ヒトにおいて人生の満足度を下げる最大の原因の1つである。
カナダで行なわれた調査では、誰かが宝くじに当たると、その隣人たちが借金を重ね、自己破産に陥る傾向が高まることがわかった。
彼らは幸運な隣人に追いつこうとして、失敗したように見える。同様に、年収が上位1%(50万ドル超)に入るアメリカ人のなかには自分が中流階級であると言う人が多い。これはたぶん、自分よりも裕福な人々と自分を比べているからだろう。
これこそが、チンパンジーのフェイスブックが生まれない理由である。それは、チンパンジーがコンピューターやスマートフォンを使えないからだけではない。フェイスブックが多くの人間を魅了し続けているのは、社会的比較に取りつかれた人間の執着心をあおっているからだ。
私たちはたいてい、他人に対して自分をできるだけよく見せようとするものの、ほかの人が完璧な人生を送っている姿を受動的に見ることで幸福感や精神衛生に悪い影響が及ぶという考えは、今ではまずまず定着している。とりわけ、自分自身の人生が他人と比較してあまりうまくいっていない場合にはそうだ。
実際、自分と同等の人よりも暮らし向きが悪いことはかなり不快であり、私たちは社会的パートナーがさらに多くのものを手に入れるのを阻止するためだけに、進んで自分のお金や労力をつぎ込む。
「最後通牒ゲーム」が明らかにしたこと
実験室で公平性に対する人々の好みを測定する際に用いられる標準的な方法は「最後通牒ゲーム」だ。これは2人のプレーヤーで行なうゲームで、一方のプレーヤー(提案者)がお金を預かり、そのうちどれぐらいを相手(応答者)に分配するか提案することができる。
ここで問題は、応答者に拒否権があることだ。応答者が提案を拒否すると、どちらのプレーヤーも取り分はゼロとなる。
人々が古典派経済学のモデルに従って振る舞い、単にゲームでの取り分を最大にしようとした場合、応答者は取り分がゼロでなければ提案を受け入れるはずだ。提案者はそれを期待して、相手の取り分をゼロにせずにできるだけ少ない取り分を提案するはずである。
しかし、お察しのとおり、こうしたことはめったに起こらない。私たちの大半は合理的に考えて取り分を最大にするのではなく、社会的比較と公平性にこだわって、最後には取り返しがつかない事態に陥る。不公平と受け取られる提案はたいてい拒否され、どちらのプレーヤーも手ぶらで帰ることになるのだ。
これは経済学的には不合理かもしれないが、両者が手ぶらで帰ることは、相手の取り分が自分より多い場合よりも満足度が高いようだ。
4歳の子どもでさえも不公平を拒む
公平性に対する好みは、ヒトの成長のかなり早い段階で現れるようだ。それを測定するために研究者がよく用いるのが、子どもたちが大好きでどうにか手に入れたいと思うもの、そう、お菓子だ。
私たちは世界中の子どもを対象に、こんな実験を行なった。
2人の子どもが、1つの装置を挟んで向かい合わせに座る。装置にはお菓子が載った2つのトレイが置かれ、それぞれの子に1つのトレイが割り当てられる。
1人の子(決定者)のところには2つの取っ手(緑と赤)があり、それを操作することでお菓子が載った2つのトレイを傾けることができる。
緑の取っ手を引くと、2つのトレイがそれぞれの子のほうに傾き、それぞれの子の容器にお菓子を移すことができる。しかし、赤の取っ手を引くと、2つのトレイが子どもたちとは反対のほうへ傾き、お菓子は中央の容器に移され、その容器は取り除かれる。
この装置を用いることで、子どもたちが不公平な分配に直面したときにどのような反応を見せるかを知ることができる。
決定者のトレイに載ったお菓子が1個で、相手のトレイに載ったお菓子が4個である場合、決定者は緑の取っ手を引いてお菓子を受け取るか、赤の取っ手を引いて受け取りを拒否するか、どちらの反応を見せるだろうか。
大人と同じように、子どもも不公平を拒む傾向があり、自分と相手のお菓子を放棄して、相手が自分より多くのお菓子を受け取れないようにする。
前述の実験では、年上の子どものほうが不公平を拒むことが多かったものの、被験者で最年少だった4歳の子どもでさえも、不公平な扱いを受けると、進んで赤い取っ手を引いた。
こうした傾向がさまざまな国や社会で見られるという事実から、自分の取り分が他者より少ないことを嫌う性質(代償を支払ってでもそうなることを避けるほど嫌う性質)は、成長中に習得した好みというよりも、ヒトの心理にもともと刷り込まれている可能性が高いことが示唆される。
チンパンジーは公平性など気にしない
自分の財産と他人の財産を比べるというこの気むずかしい傾向は、人間に固有の短所なのか? それとも、進化のより深い系統に由来する性質なのだろうか?
初期の研究では、公平性への関心はヒトとほかの霊長類に共通するものである可能性(したがって、社会的比較はヒトとほかの霊長類の最後の共通祖先にも存在した可能性)が示唆されたが、これらの結果はほかの研究者が再現しようとしても、これまであまりうまく再現できていない。
また、ヒト以外の霊長類で不公平を嫌う性質の存在を肯定する結果の多くは、もっと単純な解釈とも整合性がとれている。それは、被験者となった霊長類は報酬を手に入れられるという期待を抱いており、その期待を下回る何かを与えられたために不機嫌になったという解釈だ。
公平性への好みは、その定義からして社会的な要素を含んでいる。自分の報酬を他者の報酬と比較しているからだ。
ヒト以外の霊長類はこうした社会的比較の手順を踏まず、自分が手に入れたものと理論上手に入れられるものとを比較して評価している。
私たちは隣人や友人に負けていないかどうかを絶えず気にしてやきもきする唯一の霊長類であるようだ。
一方、チンパンジーはそんなことをまったく気にしない。その理由を理解するには、ヒト自身の進化の歴史と、初期人類に働いた淘汰圧が大型類人猿に働いた淘汰圧とどのように違っていたかを調べる必要がある。
(翻訳:藤原多伽夫)
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提供元:ヒトだけが「他人との比較」に執着するのはなぜか|東洋経済オンライン