2022.04.06
「フードロスゼロ」とことんやれば食費ゼロに?|東京の片隅で展開される「完全なる循環型社会」
出張先の東北の温泉で食べた、土地の伝統食を中心とした朝ごはん。当たり前の野菜を大切に食べ尽くす滋味をしみじみ学ばせていただきました (写真:筆者提供)
疫病、災害、老後……。これほど便利で豊かな時代なのに、なぜだか未来は不安でいっぱい。そんな中、50歳で早期退職し、コロナ禍で講演収入がほぼゼロとなっても、楽しく我慢なしの「買わない生活」をしているという稲垣えみ子氏。不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、連載第51回をお届けします。
本来食べられるのに「捨てられる」食品たち
このところ、エコといえば話題に上るのが「フードロス」。農林水産省によれば、本来食べられるのに捨てられる食品は年間570万トン。日本人1人当たり毎日お茶碗1杯のご飯を捨てていることになるそうである。
稲垣えみ子氏による連載51回目です。 ※外部サイトに遷移します
むろんこれは単純計算で、この中には家庭で捨てられるものの他、小売店や飲食店で捨てられるものも含まれているのだが、いずれにせよ実にもったいないというか、「お茶碗にご飯粒を残したら目がつぶれる」と親に言われて育った昭和な人間の感覚から言えばまったくもってバチ当たりな話で、こんなことを国民こぞって当たり前にやっていては、いつどのような天罰が下ったとて文句も言えぬのではないかとオバサンは思う。
ま、そんな説教話はさておいても、家計の面から見ても、これはどう考えても「異常行動」としか言いようがないのは万人が認めざるをえないところであろう。
何しろ苦労して懸命にお金を稼ぎ、そのお金でようやく生きるための食べ物を買い、それをわざわざ捨てるのだ。改めて書いてみればまったくもってナゾそのもの。
百歩譲って「お金が余って余って仕方ない」というならそのような酔狂な行動もありうるのかもしれないが、どう考えてもそういうコトじゃないですよね。このシビアな格差社会では、一部の人を除いては、老後のお金も今の生活のお金も「足りない!」と心配が尽きぬ人ばかり。
なのに、その稀少で貴重なお金を自らドブに捨ててしまうのはなぜなのか。普通に考えれば、これでは金などどうやってもまるはずもない。まさしく穴の開いたバケツで水を汲むようなもの。なのに、多くの人がなかなかこの行動を変えられない。それはいったいなぜなのだろう?
無論、ここには流通システムなど複雑な問題が絡みに絡んでいるのだが、ここではその話は脇へ置いておく。
こと家庭において、すなわちあなたの家において、なぜ食品ロスは次から次へと発生してしまうのか?
インターネットを検索すれば、いくらでも答えらしきものは出てくる。「買いすぎ」とか「作りすぎ」とかね。でもみんなわかっちゃいるけどやめられないからこそこうなっているのだ。ってことは、結局のところその「本当の理由」は誰も知らないってことなんじゃないかと私は思う。
例えば、無駄な買い物はやめようと叫ばれているわけですが、確かにこの超単純なことを徹底するだけで家庭のフードロスはなくなるに違いない。でもそれが言うほど簡単じゃないからこそフードロスがこれほど出まくっているわけで、問題は、いったいなぜ、我らは「無駄な買い物」を、できればやりたくないと思っているのにどうしてもやってしまうのかということなのではないだろうか。
この「なぜ」が解明されない限り、多少の注意喚起や意識向上を図ったところで、いつまでたっても物事は変わらないと私は思う。
7年間「フードロスゼロ」を続けて気づいたこと
そう。なぜなのか? なぜ我々は苦しい家計の中から食べ物を買い、そしてそれを食べもしないでむざむざと捨て、環境にも世界平和にも家計にもダメージを与え続けてしまうのか?
はい。不肖私、その答えを多少は知っているつもりである。
なぜなら、私はかれこれ7年ほど「フードロス」というものをまったく出さない生活をしているからである。そしてそれ以前には多くの方と同様、普通にフードロスを出しまくっていたからである。
ってことは、注目すべきは7年前ということになる。7年前、いったい何が起きたのか? それを見れば、フードロスを生み出している根本原因が明らかになるはずだ。
……あ、なんか名探偵ポアロの謎解きのようになってきましたね。書いていてちょっとドキドキしてきました。
と、勝手に盛り上げたところで誠に申し訳ないのだが、その7年前の出来事についてはいずれ書くとして、まずは、現在の私の「フードロスゼロ生活」の実態からご紹介させてこうと思う。
だってこんな生活、きっと今どきの日本国民のほとんどがやったことも見たこともないはずで、しかし何事も目標を達成しようと思えばその「最終ゴール」を具体的にイメージできなければ始まらない。そう考えれば、まずはその先に何が待っているのかをリアルにお示しすることが先決であろう。
ってことことで、わがフードロスゼロ生活をざっとご紹介したい。
野菜のヘタも皮も芯も食べ尽くす
まずお断りしておきたいのは、私の「フードロス」ゼロ生活は、世間一般で定義されている「フードロス」のない生活とは、そもそも定義がまったく異なるということである。もっとはっきり(偉そうに)言わせていただければ「次元が違う」のだ。
まず、一般的に「フードロス」とは「まだ食べられるものを捨てること」を指すのだという。じゃあ腐ったものを捨てるのはどーなんスかね? ここのところがよくわからない。いずれにせよ、食べられるものを買ってきて、それを家で腐らせてから捨てるのと、腐らせないうちに捨てるのとでは、その罪深さは同じことであろう。
なのでわが家では、もう食べられなくなった腐ったものを捨てることも「フードロス」とみなしている。つまりはですね、わが家で繰り広げられているフードロスゼロ生活とはすなわち、腐った腐ってないにかかわらず、食べ物を一切捨てることのない生活のことを指す。
と言うてももちろん、さすがの私も腐ったものを食べるわけではない。ってことはすなわち、私はこの7年というもの、わが家で食べ物を腐らせたことは一度もないのである!(パチパチパチ)
まだある。
例えば野菜のヘタとか皮とか魚の骨のような「食べられない」ものは、やはり一般的定義では、たとえ捨てたとて「フードロス」とは言わないそうだ。さすがにこれは私も理解できる。もともと食べられないものを捨てるのは、当たり前というか、仕方のないこと……って言うと思うでしょ?
甘い甘い。わが家ではこの、この「仕方がない」ことにまで鋭く切り込みまくっているのだ。すなわち野菜のヘタや皮、芯、種などは、生命の危険がない限りはすべてバリバリと食べてしまう。
野菜も果物も皮などほぼむいたことがないし、芯も何もかも丸ごと食べる。ゆえにリンゴなんぞ枝のところしか残らないもんね。みかんも桃もキウイも皮ごと食べる。里芋の皮だって食べますよ。さらにかぼちゃやピーマンやゴーヤの種も綿も食べる。
無論キャベツの芯も白菜の芯も食べるし、ネギの根っこも食べる。玉ねぎの皮はさすがに硬くて食べられないが、湯で煮出してお茶にして飲む――まったく我ながらピラニアのようである。
こうなると、野菜で捨てるところといえば、おがくずのついたエノキの根っこと椎茸の石突き、出がらしの「番茶」の茎の部分くらいだ(ちなみに柔らかい茶葉は醤油や鰹節など振りかけてご飯のお供に食べる)。
あと魚や肉の骨、貝殻なども食べませんけれど、そもそもこのトシになれば家で肉魚を食べることは滅多にないので、結局、わが家では食べ物に関して「捨てる」ところははほぼゼロということになる。
まだある。
先ほどエノキの根っこなどは「捨てる」と書きましたが、実際にはゴミ箱に入れるわけではない。わが家では生ゴミはベランダで土嚢袋を使って堆肥にしているので、わずかに発生する食べられないものも、1年後には立派な土として再生させておりまして、その土でささやかに野菜を育てて喜んで食べている。
つまりは、エノキの根っことて「ゴミ」などではなく、新たな食料を生み出すエネルギーとなっているのだ。このように、完全なる循環型社会が東京の片隅で展開されているのである。
さらにさらに、それだけではない。
私が日頃の食生活で常用しているのは「おから」「米ぬか」「酒粕」である。どれも日々の料理に、漬物に、堆肥の栄養にと欠かせぬ貴重な資源だが、これはどれも食品を生み出す過程で出る産業廃棄物として捨てられる運命のものばかり。
それを日々活用しているわけだから、私はわが家の食品ロスがゼロというだけではなく、世の中の食品ロス削減にも日々貢献しているのである。
そうここまでやって初めて、わが「フードロスゼロ」生活は完成するのであります!
……ここまでくると、だんだん誰もついてこれなくなってフト振り返れば誰もついてきてない気がしますが、めげずにどんどん書く。つまりは私は、この平和で豊かな(今は)日本において、いわば戦時下の食糧難の時代のように、目につく「食べられそうなもの」は一切無駄にすることなくとことん食べつくす食生活をしているわけです。
節約も我慢もなしで食費が限りなくゼロに近づく
こんなことをしていると何が起きるのか?
たちまち、どうやっても食費が限りなくゼロに近づいていくのであった。
節約したり我慢などしているわけではまったくない。普通に食べたいものを食べて、それでもどうしたって結果、そうなってしまうのである。
そのくらい、何かを最後までとことん「食べきる」というのは、いざやってみれば本当に大変なことなのだ……ということを、私はこのフードロスゼロ生活で思い知った。
例えば、冬にでっかい見事な葉っぱ付き大根を1個(150円程度)を買えば、それを1人で、隅から隅まで、皮も葉っぱも何もかも食べ尽くそうと思ったら壮大なプロジェクト以外の何物でもない。
千切りにして味噌汁の具に、がんもを焼いて大根おろしをたっぷり、葉っぱを炒めてご飯の供に、ちょっと厚く切ってお揚げと一緒に醤油煮、炒めてきんぴら、お手軽に納豆に大根おろし、そして定番ぬか漬け、あるいは切り干し大根にして酢に浸しハリハリ漬け……なーんてことをせっせとやってたら、1週間は他の野菜はほぼ何も買わずとも余裕でやっていける。1日あたり20円程度。あとは豆腐か油揚げなど買うだけでおかずの心配なし。
ここまで長持ちするのは、皮も葉っぱも何もかも食べているせいでもあると思う。なぜなら、そのような「みんなが捨てるところ」というのは実に食べ応えがあるのだ。
要するにハッキリ言って固い。となれば、やたらともぐもぐ噛むことになる。人とは不思議なもので、ずっと一生懸命噛んでいると、それだけでゲフッとお腹がいっぱいになってくる。すなわちそんなにたくさんは食べられない。また聞くところによれば皮などは栄養価がめちゃくちゃ高いらしいので、食べ応えがあるのはそのせいかもしれないとも思う。
いずれにせよ、大根1本を最後まで食べきるのは、これで1週間は「余裕」というよりも、心底必死にならねば最後までたどり着けないと言ったほうがいいような気もする。白菜もキャベツも人参もごぼうも同様。ことほど左様に、「食べきる」とは、まったく容易ならぬ大事業なのである。
フードロスをなくせば、お金の心配もしなくていい
そんな暮らしを始めてみて、私は、生きることとお金の関係がよくわからなくなってきた。
生きることは大変だと誰もが言う。なぜって、生きるためには金を稼がなきゃどうにもなんないから。でも生きるとは、究極のところ「食っていく」ということだろう。食っていくことは、それほどお金がかかることなのだろうか。
最近よく思うのは、私、いざという時には本気になればほぼタダで食っていけるかもってことだ。
例えば、近所のスーパーのキャベツ売り場の横にあるコンテナは、多くの人が捨てていった、一番外側のデッカい葉でいつも山盛りである。私、この葉っぱを店の人にお願いして1枚いただくことができれば、最低2日は野菜に困らないと思う。
味噌汁の具に、味噌で炒めて、出汁味で煮込んで、ぬか漬にして……考えただけでゲフッとお腹いっぱい。何しろ先ほども書いたが、みんなが捨てる外側の葉っぱは固いので食べ応えがあるのだ。
え、そんなところは美味しくないんじゃないかって? いやいやそれを美味しくするのが料理というものであろう。固いものほどじっくり火を入れると柔らかく甘くなるものだ……なんてことを考えているとムクムクとアイデアが湧いてきて、それはそれでまた別の楽しみとなる。
つまりは何を言いたいのかと言いますと、多くの人がなぜフードロスをなくすことができないのかって大問題はさておき、もし本当にフードロスをなくすことができれば、誰でもそれだけで、ほんのわずかなお金で十分「食っていける」ということだ。人生の心配の実に多くの部分を占める「金の心配」から、相当部分解放されるということだ。
食べ物が混じった水も無駄にしない
ちなみに私、ここまで極めただけではまだ飽き足らず、最近事態はさらにエスカレートしておりまして、ご飯を炊いた鍋にこびりついた飯粒、あるいは炒め物をしたフライパンに残った油なども「食べ物」とみなし、水を入れヘラなどでこそげ落としまして、その水を使って味噌汁や鍋などを作っております。だって考えてみたら、食べ物が混じった水を「排水」としてゴミにすることも“立派な”フードロスなんじゃないでしょうか?
実は、この試みには「先輩」がおりまして、それは、天然の湧水を生活水として利用している滋賀県のとある地区で見たコイであります。
この地区ではどの家庭でも鍋釜などを洗った水を一旦水槽にためておき、そこでコイを飼っておられる。そのコイが洗い水に混じった食べ物のカスをせっせと余すところなく食べつくしてくれるので、綺麗になった水を下流の家の人が使うことができるというすごいシステムを長年守っておられるのだが、私が超刮目したのは、ここで飼われているコイがどれもこれも、シーラカンスかと思うほど巨大に丸々と太っていたことであった。
彼らは鍋釜にこびりついた「汚れ」だけで、立派に生きているどころか、むしろ食べすぎくらいの栄養を得ていたのである。
ってことはですよ、人間だっていざとなればそんなふうに生き永らえることも可能なんじゃないの?
ってことで、今日も飯を炊いた鍋にくっついた米がたくさん混じった味噌汁を食べている。確かにめちゃくちゃボリューミーである。
「食べてく」=「生きてく」ってことは、まだまだ未知の可能性に満ちているんじゃないかと思う今日この頃である。
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提供元:「フードロスゼロ」とことんやれば食費ゼロに?|東洋経済オンライン