2021.12.20
「自分で自分を潰す人」がやりがちな思考のクセ|疲弊感なく物事を継続するために必要なこと
「義務感」を少し手放してみたら、物事の継続につながるかもしれない(写真:Pangaea/PIXTA)
一会社員だったところから独立し、ストリートでの書道パフォーマンスを経て、成田空港や明治神宮前駅に作品がパブリックアートとして展示され、映画や大河ドラマの題字も数多く手掛けるまでになった武田双雲氏。近年は、オーガニック食材や発酵食品を使った店舗のプロデュースのほか、結晶が成長するビスマスという金属を使用しての書道アート、NFTで次々売れていく現代アートなど、活動の幅をどんどん広げています。
では、それだけのことを、面倒くささに押しつぶされず、書道家という枠にも縛られずに、楽しく続けられるのは、なぜなのでしょうか?
ある程度のお金は稼げても、時間がない、心の安らぎがない。社内からイノベーションが生まれない……そんな悩みを持つ一流企業の幹部たちも参考にするという、武田双雲流の生き方とノウハウが詰まった書籍『丁寧道 ストレスから自由になれる最高メソッド』より、一部を抜粋してお届けします。
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多くの人が「続けること」が苦手な原因
何かを始めようとしたとき、すぐに挫折してしまう人は少なくありません。
もちろん、その原因には継続性がポイントにあることは間違いありませんが、新しい習慣が長く続きにくい理由には、もっと根源的な要因が潜んでいます。
それが「義務感」です。
たとえば、とくに男性は覚えがあるかもしれませんが、子どもの頃、小学校まで石ころを蹴りながら登校したことがなかったでしょうか?
あれって誰からもお願いされたことじゃないのに、石がドブに落ちたりしないようにコツコツ丁寧に蹴っていたんですよね。
でも、あれを真面目に「毎日通学路で石を蹴らなくちゃ」と、タスク化して意識すると、かなりしんどいですよね。
そのしんどさを感じるか、感じないかの差を生むものが、「義務感」の有無なんです。
ただただ通学路で石を蹴っているうちは、「義務感」は発生しません。
石を蹴ることがめちゃくちゃ楽しい、というわけではないかもしれませんが、自分が狙ったところに石が行くように、無心で蹴っているからです。
これは、わかりやすい動的でハイな高揚感の楽しさではありませんが、静かで邪念のない喜びや集中で満たされている、ある種のゾーンのような状態です。
ところが、ここに石蹴りを評価する先生が現れたらどうなるでしょうか?
「その蹴り方はなってない!」「もっと真面目に蹴りなさい!」
「××くんよりも遠くに蹴りなさい!」「どうしてドブに落とさないように蹴れないの?」などと言われたら、
「あ~、明日も蹴らなくちゃ」「怒られない蹴り方をしなくちゃ」
「××くんに比べて自分は蹴るのが下手だなぁ……」
なんて思うようになって、そのうち石蹴りなんてやめてしまうでしょう。
つまり、真面目にやりはじめると、「評価」という視点が加わり、競争や劣等感、目標や夢に振り回されるのでしんどくなるわけです。
自分自身で評価している場合が多い
これは、評価する人が自分自身の場合も同じです。
というよりも、むしろ自分で自分を評価して裁いている場合のほうが多いでしょう。
うまくできている・できていない/あの人のようにはできない/こんな行動に意味があるんだろうか(いや、ないに違いない)/これは目標達成には関係がない……。
こういった「~しなさい」「~できていない」というような評価者が現れたときに、人は「義務感」を覚えるのです。
みなさんも思い返してみてください。
ものすごく好きなアイドルがいたとします。
そのアイドルの出演する番組を見たり、アイドルの握手会に行ったりすることに評価が入っていたでしょうか?
きっと、ただただ好きだから、お金も時間もエネルギーもかけて、はるばる地方公演まで夢中で追っかけたりするわけで、偏差値を上げようとか他人からの評価を得ようと思って、そのアイドルの好きなものや誕生日を覚えようとしているわけじゃないですよね。
でもその結果、学校の勉強なんかよりもはるかにすごい記憶力を発揮したり、苦もなく膨大な知識や明晰な分析力を身につけていたりするわけです。
つまり、「義務感」が発生しなければ、物事の継続はうまくいきやすい、というわけです。
「義務感」はいつから始まるのか
世界的に見れば、日本は経済もインフラも、すごく恵まれているほうだと思います。それなのにどこか生きづらくて、多くの人が心の底からは人生を楽しめていない感じがするのは、なぜでしょうか。
細かく挙げだしたらキリがないと思いますが、その生きづらさの正体こそが、「義務感」に集約できると僕は感じています。
こうしなくちゃいけない、こうでなくてはいけない、という「義務感」が蓄積した結果が、現在の生きづらさではないでしょうか。
ここで疑問として浮かんでくるのが、「僕たちは、いつから『義務感』を背負うようになったのだろうか?」ということです。
生まれたての赤ちゃんには、「義務感」なんてありません。
周りにいる同じ月に生まれた赤ちゃんを見て、「やべ! 私も早くハイハイできるようにならなくちゃ!」なんて思っているわけがありませんよね。
まず、赤ちゃんには自意識という名のノイズがないから、そういうことを考えようがないわけです。
では、何が「義務感」を生むいちばんの原因かというと、おそらく外の社会に触れることだと思います。つまり、保育園や幼稚園に通い出したあたりが、僕たちが「義務感」を最初に背負いはじめるタイミングではないでしょうか。
僕は自分の子どもたちを見ていて、そう思いました。3歳で幼稚園に通いはじめたとたん、自分発ではない「しなくちゃ」が一気に発生するのです。
まず幼稚園に行かなくちゃいけない。
そして幼稚園では、この時間に着替えなくちゃいけない、この時間に食べなくちゃいけない、この時間にみんなでお散歩に行かなくちゃいけない、この時間に寝なくちゃいけない、この時間に帰らなくちゃいけない……。
もちろん、人間は社会的な動物ですから、社会性を身につけることは大切です。
ただ、幼少期に初めて直面した「しなくちゃ」が、次第に必要最低限の範囲を超えて積もり積もっていく。
その結果、大人になってみたら、無意識のうちに「義務感」が強固にクセづいていて、がんじがらめになっている自分がいた……というのが実情なのではないでしょうか。
もしかすると、自分がやりたいと思って始めることと、「義務感」から始めることの区別もつかなくなっているのかもしれません。
要は、必要以上の「義務感」が、僕たちを生きづらくさせている。それがイライラや焦りなどにつながっているのではないかと思うのです。
「しなくちゃリスト」をつくってみる
社会生活をしているのだから、「義務感」を抱えて当然でしょ? と思われた方も少なくないかもしれません。
でも、もし当然のように抱えていたけれど、実は手放せる「義務感」もあるとしたら、どうでしょうか。
そこで僕からの最初のオススメは、自分を縛っている「義務感」を棚卸ししてみる、というものです。自分の中にたくさんある「義務感」のうち、1つでも2つでも手放して、その結果1つでも2つでも不満が解消されるだけで、だいぶ気分は違うはずです。
では、実際にやってみましょう。
いま、あなたを縛っている「義務感」とは何でしょう?
1日の中で「しなくちゃ」と思っていること、また、もう少し長いスパンで「こうならないといけない」と思っていることを、すべて書き出してみてください。
たとえば、今日1日の中のことなら──。
起きなくちゃいけない/着替えなくちゃいけない/歯を磨かなくちゃいけない/ごはんをつくらなくちゃいけない/ごはんを食べなくちゃいけない/食器を片づけて洗わなくちゃいけない/洗濯しなくちゃいけない/掃除しなくちゃいけない/子どもを学校に行かせなくちゃいけない/会社に行かなくちゃいけない/満員電車に乗らなくちゃいけない/仕事で売り上げを出さなくちゃいけない/親の介護をしなくちゃいけない/買い物に行かなくちゃいけない……etc.
また、もう少し長いスパンでのことなら──。
資格を取らないといけない/ステータスの高い会社に入らないといけない/昇任試験に受からないといけない/結婚しないといけない/子どもを産まないといけない/家のことをパートナーと話して決めないといけない……etc.
こんなふうに書き出したら、そのリストを眺めてみます。
まず、このように自分の中にある「義務感」を可視化するだけでも大きな1歩です。
ただし、「義務感」でいっぱいの自分を決して否定しないでください。
「こんなに『義務感』だらけなんだな~」と気づくことに意味があります。
そうしたら、今度はその中に「実はやらなくても大丈夫なもの」があるかどうか、少し考えてみてください。あったら、いまこの瞬間に手放してしまえばいいし、なかったら、それはそれでオッケーです。
こうしてリスト化してみると、「義務感」というものが、どれほどブレーキになっていたのか気づいた人も多いでしょう。
本来ならば喜びのはずの家族との時間ですら、「家族サービスしなくちゃいけない」と感じていたことが可視化されて愕然とした人もいるかもしれません。
また、楽しみのつもりのゲームが、半ば義務的で「実はもう飽きているのになんとなくやっていた」ことを発見した人もいるかもしれません。
そう考えると、「しなくちゃいけないと思い込んでいたけど、本当はしなくたっていいのかもしれない」と、手放せる「義務感」があることに気づいた人もいるのではないでしょうか。
また、いつしか「義務感」のように感じていたけれど、もともとは好きなことだった、ということに気づく人もいるかもしれません。
“あるもの”に気づけるようになる
多くの人は、自分に“ないもの”にばかり目を向けるからストレスがたまります。
でも、「実は好きだったよな」と“あるもの”に気づけるようになると、しんどい「義務感」を純粋な「意欲」へと転換できる可能性も出てきます。
一例を挙げれば、砂場遊びを楽しんでいる子どもたちと、汚れるから砂場遊びは嫌だと思いながら子どもに付き合っている大人たち、やっている行為は同じでも意味づけを変えているのは、自分自身です。
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でも、もしかすると、砂場にいる自分を丁寧に味わい尽くしてみたら、「久しぶりにはだしで砂のつぶを感じてみたら気持ちいいなぁ」「砂にシャベルを差す音って楽しいなぁ」と自分の中の景色が変わるきっかけになるかもしれません。
どんな人も、実は「自分が見たい景色」を見て、現在を生きています。
目の前の現実から何を感じたいのかは、選ぶことができます。
その姿勢で生きていれば、毎日を変えていくこともできます。
人との比較ではなく、人から課せられるのでもなく、自分自身が純粋にやりたいからする。
自分のセンサーを復活させるためのファーストステップに、まずは自分を縛っている「義務感」を可視化することから始めてみてください。
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提供元:「自分で自分を潰す人」がやりがちな思考のクセ|東洋経済オンライン