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2024.06.18

精神科医が「自分が病みそうになった時」の対処法|発した言葉が意図せず患者を傷つけることも…


初心の精神科医がよく耳にする戒めとは?(写真:photobyphotoboy/PIXTA)

初心の精神科医がよく耳にする戒めとは?(写真:photobyphotoboy/PIXTA)

精神科医でありながら、詩壇の芥川賞とも呼ばれるH氏賞受賞の詩人としても活躍する尾久守侑氏。そんな尾久氏による、ユーモラスで大まじめな臨床エッセイ『倫理的なサイコパス:ある精神科医の思索』より一部抜粋・編集し、3回にわたって掲載します。

第1回は、「患者さんとの距離の取り方」についてです。

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言葉がメスになる精神科医

精神科医にとっての言葉は、外科医にとってのメスで、精神療法*は手術に相当するというのは、精神科の業界では非常によく用いられる喩え話である。初心の精神科医に対する戒めとして指導医が使ったり、何かいいことを言ってやろうみたいな精神科医のツイートなどでもしばしば散見される。

*薬物のような物理的手段ではなく、治療者が言葉や態度を利用して心理的に治療する方法のこと。

しかし、あまりにあるあるネタのようになってしまったせいか、最初に喩えられたときと比べて段々とそのインパクトは縮小していて、ほぼ形骸化しているというか、言葉が侵襲性をもっていて患者を致命的に傷つけうるということを真剣に現場で考え続けている人は、私も含めてそこまで多くないような気もする。

なにせ言葉である。ふつうの感覚からすれば、人の皮膚や臓器を切ることに比べれば軽い。軽すぎるといっていい。初めての患者さんと会う瞬間などは当然言葉にも細心の注意を払っているわけだが、慣れた患者さんを診察していたり、疲れていたりすると発話も自動化してしまうというか、気づいたらふつうの感覚でべらべらと喋ってしまいがちである。

しかし、本当に言葉がメスなのであれば、べらべら喋るというのは診察の場においてメスをむやみやたらに振り回しているに等しく、その刃先が患者さんの頬をかすめたり、場合によっては不幸なことにぐさっと刺さってしまったりすることもあるわけである。

メスを振り回している自覚のない恐ろしさ

「3年前、初めて先生が言った――――という言葉を時々思い出すんです」

などと突然患者さんが言うことがあり、ややや、これはまずいことになった、私の振り回してしまったメスが当たってしまい、それが今責められているのだ。しかも、私自身はそんなことを言ったことは微塵(みじん)も覚えていない、ややや、どうしよう、ややや、ややや。

と意味不明の掛け声をかけて恐れ慄(おのの)いていると、実は私が3年前に発した言葉に支えられている、というポジティブな内容だったりしてほっと一安心するわけだが、しかしよく考えてみて安心できないのは、振り回したメスのうち、なにが患者さんを傷つけ、なにが患者さんの病巣を切り取ったか、メスを振り回した当人がよく分かっていないという事実は変わらずそこにあるからである。

当然、私の診療の技術が未熟であることにも由来するのだが、おそらく、外科医が手術で病巣を切り取る以上に、精神科医がふるう言葉のメスがどう患者に作用するのかというのは予測不能な部分が大きいということも部分的には示唆していると思う。分からない。外科手術においても、意図してもうまくいかないこと、予想だにしない生体の反応というのはひょっとしてあるのかもしれないが、知らぬ間に大血管を切っていて、3年経ったあとに急に手術の合併症で亡くなったということは通常ない。

血管に触らないよう注意して結合組織を剥離するように、精神科の診療においても命に関わる血管を切ってしまわないよう慎重に言葉を使いながら診療を進めていくことは当たり前なのだが、それでも実は動脈を切っていて、大出血していた、ということが後になって分かるということがある。

何が傷つけて、何が傷つけないかは、もちろんまずもって傷つけないであろう言葉というのはあるのだが、それだけでは治療にならないこともあり、これを言ったらひょっとして出血するかもな、ということも言わないとならない場面はある。

いや、本当に言う必要があるのかどうかは慎重に吟味すべきだろう。言わないとならないと思い込んでいるときこそ、冷静に考えてみると、自分が言いたいだけということはしばしばあるものである。

いずれにせよ、ちょっと出血するかもしれないことを言うときは、患者さんの反応をみて、患者さんの出血量を判断している。つまり、切ってみてどうかをみているのだが、出血したからといって、そこでやめてしまうというものでもなく、出血した、ということを今度はヒントにして、次にどこを切るかを決めるようなところがある。

しかし大抵は反応がない

問題は、その反応が大きければ誰にでも分かるのだが、反応がすごく微細だったり、間接的だったりすることがほとんどで、場合によっては誰がみても分からないということすらありうる。なんというか、言わないのである。傷ついた、とか、支えになっている、とかその場ですぐ言う人もいるかもしれないが、大抵は言わない。切られた本人ですら、後から傷ついたことが分かったり、傷つけられたと思ったらやっぱり支えになっていたことが分かったり、その逆もある。

言われれば分かるが、言われないとフィードバックができないので、同じようなところに同じメスをふるってしまうことがありうる。肝心なのは、言われないが発せられる微細な出血のサインを感じ取ること、感じ取って次のメスをふるう方向を微調整すること、それでまた出血のサインを感じ取ること、この繰り返ししかない。

我々精神科医の診療は、精神科医として患者の前に立って行う言動のすべてに、患者にメスを入れるという側面があり、外科手術と違ってどうやっても何百人か何千人かに一人はおそらく変なところを切ってしまう。これはたぶん防ぐことができないことなので、そういう危ないことをしている因果などうしようもない存在であるということを認識した上で、それでもメスを握るしかないわけである。

外科医も時々切ってはいけない血管を切る、などと発言したらこれは大事だが、精神科医の場合は、間違えて切ったところで目に見えて肉体が死ぬわけではないので、切ってはいけない心の血管を切り患者の心が死ぬことに対して、幾分過小評価されているところがあるような気がする。

医師というのは自分を正常な位置において、そこから患者さんの病理を評価することが基本的な態度となっているわけだが、ときに医師という白衣が脱げて人間になる瞬間がどうしても出てくる。人間は人間の言うことに左右されるので、医師であっても揺れ動く存在になることは当然あって、つまり咄嗟(とっさ)に腹が立って変な血管を切ることだってありうるだろう。

人間として対峙することにはこのような危険が常にあるが、心を相手にするときは、やはり白衣を着っぱなしだとそれ以上理解が進まないことはあり、ただ白衣を脱ぎっぱなしだとただの素人芸になってしまう部分もある。なのでジャケットダンスをするように着たり脱いだりするのがひとまずの折衷案になるのかなと思う。

ちなみにジャケットダンスの例を出すときに私の脳内には郷ひろみとJO1 が浮かんだが、どちらも別の意味で読者全員がイメージできるアーティストではないと思ったので口をつぐんだ。つもりだったのに喋っている。

多くの医師がとる戦略

一方で、医師が自らの心を守るためには、ジャケットダンスのような七面倒臭いことはさっさとやめて、白衣を2枚着る、白衣の下にケーシー(ググってみてください)を着る、スクラブ(ググってみてください)を着る、みたいなことをすれば良いし、多くの医師はむしろこちらの戦略をとることのほうが多いのではないか。

医師も人間であって、現場でやりとりをしていると傷つくことが頻繁にある。精神科医が一般の人に聞かれやすい質問第一位はおそらく今も昔も「そういう人たちの話を聞いていて、自分が病んでしまうってことはないんですか?」だが、まさにそういう話である。

この質問に対してはいつも適当に答えてきたなと思うのだが、その適当な答えを思い出してみると、「まあ話きいて病むような人はあんまり精神科選ばないかもね」とか「慣れた精神科医は同じ人間という距離感で接するんじゃなくて、『病気を診察する』という感覚だから、何言われても傷つかないよ」といったことを大抵は言っているなと思い出す。つまり白衣が脱げて人間が見えてしまい、傷ついたり傷つけたりするような状況はプロじゃないよ、みたいなことを自ら言っているのである。

自分の言葉が人を傷つけるかもしれない、傷つけたかもしれないという距離にいつづければ、まあ病んでしまうだろう。え、病まないですかね。分からないが、少なくとも私は病んでしまう。なので、病みそうになったら一度撤退するというか、「直面化して考えさせないといけない場面だったよね」などと、こちらの立場を正当化することで、それでよしとしてしまう。白衣を着るのである。

距離をとって考えてみることで楽になり、逆に次の展開を考えやすくなったり、視界が開けたりすることはありうる。こうした態度は “メンタル”が崩壊しないように自らを守る知恵であり、まず精神科医が最初に身につけるべきだということを思い出した。

現実を「受け止めすぎない」

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『倫理的なサイコパス:ある精神科医の思索』(晶文社) クリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします

しかしやはりこうした知恵のなかには、自分の白衣は絶対に脱げないという否認があり、でろでろに白衣もスクラブも脱げて上裸になりながら「患者さんのパーソナリティの問題で診察の継続が困難になりました」と述べているような現状がないかは、よくよく自分に問わないといけない。

改めて、現場で重要なのは、着たり脱いだりのジャケットダンス。それをできれば意図的にしてみる、ないしは無意識に行った直後に気づいていく、ということだと思う。

本稿を含む公開された文章はすべて患者さんが読む可能性があり、そして傷つく可能性がある。じゃあ書籍など書かなければいいわけだが、書いてしまうのは社会に必要な書籍だからというよりは、書籍を書きたいという欲が自分にあるからである。

つまり欲によって自らを公開し、患者さんを傷つけている、ということがあり得ているわけで、とんでもないわけだが、その現実を受け止めすぎるともう私は本など書けないわけで、それは嫌なのでなんとなくこのことを曖昧にしているというところもあるだろう。

それでいい、とする態度をとることで私の心は急速に楽になるが、100%それでいいわけではもちろんない。それは知っていて、でも公開してしまうようなずるい側面があるということを自分で理解しながら、そういう存在であることに罪悪感も抱きながら、診療も続けていきたいと、世界に甘えてしばらくは生きていきたい。

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提供元:精神科医が「自分が病みそうになった時」の対処法|東洋経済オンライン

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