2022.12.07
「生活に支障出るほど感情移入」ふかわさんの苦悩|年を重ねるほど周囲の顔色に敏感になっていく
繊細で敏感な性質のふかわさんがたどり着いた、「自分らしい生き方」とは(撮影:今井康一)
お笑い芸人の枠を超え、テレビ・ラジオのMCや、ROCKETMAN名義での音楽活動、コラム・エッセイの執筆など、多方面で活躍するふかわりょうさん。誰もが素通りするような、「どうでもいいこと」を気にして深掘りしてしまう、不器用な日常をつづったエッセイ集、『ひとりで生きると決めたんだ』が2022年11月に刊行されました。
インタビューの後編では、生きづらさを抱えがちな、繊細で敏感な性質のふかわさんがたどり着いた、「自分らしい生き方」について語ってもらいました。
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前編:『ふかわさん「ひとりで生きると決めたんだ」の真意』 ※外部サイトに遷移します
日常生活に支障をきたすほど感情移入
――新刊『ひとりで生きると決めたんだ』の中で、ご自身のことを「人から見たら本当にどうでもいいことばかり気にしてしまう」とおっしゃっています。日常のささいな事柄をどこまでも深掘りするふかわさんの姿に、世間一般と見方や感覚がズレていても構わないのだと救われた気持ちにもなりました。
そうでしたか。僕自身は誰かを救おうという気持ちはいっさいなく書いているんですけど、結果的に副産物として、そのように感じてくれる方がいるのは大歓迎です。
――22個あるエッセイの中でも一番心に残ったのは、「I'll Remember April」。ふかわさんが運転するオープンカーに一枚の葉っぱが落ちてきて、一緒に家に連れて帰る物語です。その葉っぱの名は、楠三郎さん。楠さんとの会話があたたかくて、ふかわさんの想像の世界に引き込まれました。
このお話は想像ではなくて、実際に起きたことと感じたことを忠実に書いたものなんです。ちょうど、ラジオの仕事でソニー・クラークの「I'll Remember April」という曲をかけた日の、帰りの出来事でした。
僕としてはどこまでが現実で、どこまでが物語なのか、その狭間をぼやかして描くのがすごく好きなんですよね。楠三郎という葉っぱは、今も自分の家に居て、この曲のタイトルのように、来年の4月になったら土に戻そうかと思っています。
植物を土に戻すという行為は、僕の日常ではごく自然なことです。いただいたお花も枯れてきたらドライフラワーにして、最終的にゴミ箱には捨てずに家の周りの土に埋めます。道の駅で買ったゆずも、カビが生えて真っ黒になっているんですけど、捨てずに共同生活しています。
(撮影:今井康一)
僕自身、生き物に限らず、モノ全般に対して、情が湧いてしまうというか。感情移入してしまうのが、ある種自分の性質であり、日常生活に支障をきたす部分でもあります。
人間に対しては「もうちょい頑張りなさいよ」
――日常のどのような部分で支障をきたしますか?
あるとき、仕事先の楽屋でちっちゃいクモが飛び跳ねていて、「あ、家から連れてきちゃった」と気づきました。「このクモは果たして新天地で暮らせるだろうか……」と心配になったので、家に連れて帰ろうとしたんですけど、テレビの生放送が控えているのでどうしたものかなと。
これはジャケットのポケットに入れておくしかないなと、小さなクモをポケットに入れたまま1時間生放送に出て、家に連れて帰ったこともありました。
夏は忙しいですよ。道端でひっくり返っているセミを戻してあげるのに。転がって動けないでいるセミを見つけるたびにいちいち戻してあげて、なかなか歩き進められない。もう病に近いです(笑)。
――生き物への愛情が並外れていると言いますか。人間に対してはどうなんでしょうか。
生き物に対しては、ある意味「弱きもの」というか、人が守るべきものだと思いますが、人間に対しては、「もうちょい頑張りなさいよ」と思いますかね。見る対象として、シンプルじゃなくなってしまう。
人の中にも、弱い人はいると思います。ただ、僕自身の「弱い人」に対するイメージは、もしかするとほかの人とは異なるかもしれません。
例えば、いじめをする人――。
もちろん、いじめられている人を一刻も早く救出することが先決です。でも、その後にはいじめる側の人も救わないとダメだなって思うんです。
それは、決していじめを容認するわけじゃなくて、いじめる側の人の心にも苦しみがあるから、そこにも目を向けないといけないよなって思ってしまいます。
――いじめは決して許されるものではないけれど、その行動の奥にある苦しみやそうせざるを得ない背景にも目を向けるべきだと。
場合によりますが、単に「悪」だからと切り捨てる行為は、僕にはできないというか。
以前、テレビ番組でゴミ屋敷を片づけるという企画がありました。周辺の住民からすれば、臭いや火災の原因になるので物理的に迷惑をかけているのは事実ですが、どうもゴミ屋敷の住人の方のお話を聞いていると完全な悪人に思えないんですね。
ゴミを溜めてしまうのは、それだけ心に何かを抱えているからなんだろうなって、背景のほうに目を向けてしまいます。
これは「判官びいき」とかではなくて、どちらにも平等に向き合いたい気持ちが自分にはあるんだと思います。
――人や物事に対して深く、細かく考えてしまうふかわさんは、人間関係でやりにくいと思うことはないですか。
ありますよ。これ以上踏み込むと相手は傷つくだろうなとか、自分自身も傷つくのを恐れることもあります。ほんの少し、相手の顔色が変わっただけでも敏感に気づいてしまいます。
相手の顔色を見ながら物事を進めていく敏感さは、番組のMCをするうえでは有効なのですが、日常においても繊細に反応してしまうので、オンオフのスイッチがあればいいなって思います。20代のときよりも、センサーの感度が良くなっている気がします。
年を重ねるほど周囲の顔色に敏感になっていく
――年を重ねると、神経が図太くなりそうですが、ふかわさんはより鋭くなっていると。
僕の場合は感度が高くなっていますね。子どもの頃って、正直な分、残酷な面もあるじゃないですか。
でも、大人になると視野も広がって周りのこともよく見えるようになるので、相手も自分も傷つけないように感覚を研ぎ澄ませないといけない。僕はそれが顕著なのかもしれません。
ふかわりょう/1974年生まれ。神奈川県出身。94年、慶應義塾大学在学中にお笑い芸人としてデビュー。長髪に白いヘア・ターバン姿の「小心者克服講座」でブレイク。後の「あるあるネタ」の礎となる。現在はテレビMCやコメンテーターをはじめ、ROCKETMANとして全国各地のクラブでDJ活動を行う。楽曲提供やアルバムを多数リリースするほか、エッセイを発表するなど、活躍の幅は多岐にわたる。著書に『世の中と足並みがそろわない』『ひとりで生きると決めたんだ』(いずれも新潮社)などがある。(撮影:今井康一)
――周囲の様子を敏感に察知するふかわさんにとって、MCのお仕事はとても合っているのかもしれませんね。
すごく合っているとは思わないですが、性に合っているとは思います。今MCをさせてもらっている生放送の『バラいろダンディ』(TOKYO MX)では、毎回個性が際立ったゲストの方が出演されます。
僕としては出演者も番組の中身もすべて“楽器”だと思っているので、そのアンサンブルのハーモニーを届けたいという心持ちでいます。
特に生放送なので、テンポやリズム、緩急など音楽的な要素を重視していると言いますか。僕自身、音楽に携わっていることもあって、そうした要素を反映できるこの番組は、相性がいいなと感じます。
人生も音楽的なアプローチで考えてしまいますね。人生は、幸不幸で分けられるものでもなく、長調もあれば、短調の響きもあるし、速いテンポのときやゆるやかなときもあるとか。
「今、自分は人生の第何楽章を奏でているんだろうか」と、思考をめぐらせることもあります。
――ふかわさんは、芸能界で今のようなスタイルを見出すまで、いろいろと悩んだそうですね。著書にも、「自分が何者でもないことに葛藤を抱いていた時期があった」とありました。
「らしくない」って、よく言われていたんです。「らしくない」っていうのは、「お笑い芸人らしくない」とかです。今でこそ、ほめ言葉も含まれていたんだなと理解できますが、当時はそう汲み取れませんでした。
デビューした当時の27、28年前は、芸人とはこうあるべきという慣習がまだ残っていて、「芸人だったら、まず耳を出せ」などと、見た目の部分でもたびたび指摘されました。
礼儀については自分でも意識していましたが、まずロン毛ですし、コンビで漫才やコントをやるわけでもありません。いきなりDJを始めたときも、とにかく「らしくない」と言われました。
それでも自分の好きなことに取り組んできましたが、時折周囲から聞こえてくる「この人って、何がやりたいの?」「何者なの?」という声……。自分でも薄々感じるからこそ、コンプレックスを抱えていました。
そのときにふと目に留まったのが、雑誌の中の「何者でもない人、という価値」という見出し。ラジオ局員のインタビュー記事でした。その言葉になんだか救われた気がしたんです。
――どのように救われたのでしょう。
何者でもない、しっくりくる肩書がないことが、むしろ自分の個性であり、胸を張れることなんじゃないかって。
タモリさんや所ジョージさんやいとうせいこうさんを、一つの職業や肩書でおさめられるかというと、できません。でも、ゆるぎない、圧倒的な存在感があります。
そうした憧れの大先輩の姿を見ていくうちに、何者でもないこととか、らしくない自分をだんだんと受け入れられるようになって。30代になってからですね、そう思えるようになったのは。もう開き直りに近いのかもしれません。
この仕事合ってるのかな、と疑うぐらいがいい
――私自身も何者かになりたくて、自作の肩書を名乗ってみたことがありましたが、あとで変だと気づいて恥ずかしくなりました。
「自分は何者なのだ」と苦悩するプロセスは、むしろあっていいと思います。揺らぎがあるほうが、人間らしいですし。
『ひとりで生きると決めたんだ』(新潮社) クリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします
特に日本人は「この道ひと筋」とか、専門性を極める美学があるじゃないですか。それはそれであってもいいと思いますが、そうじゃないものも存在していいと思うんです。
例えば、軸足はライターだけれども、そこに縛られる必要はありません。ほかの関係なさそうな仕事をやっていたとしても、そこに冷めた目を向けるのは今の時代、違うと思っていて。本業・副業の概念はもうなくなっていいんじゃないかと思います。
逆にめちゃめちゃしっくりくる場所に来ちゃうと、それはそれで怖い気もするんですよ。「俺、この仕事超向いてるぜ!」と自信を持つのが功を奏す職種もありますが、「自分、この世界本当に合ってるのかな……?」と疑問を持つぐらいのほうが、多くの仕事は長続きする気がします。
「自分は向いていないからダメなんだ」って、ネガティブなほうに引きずられるんじゃなくて、その揺らぎをある種の動力というか、味方にしたほうがより長く仕事を楽しむことができると思います。
前編:『ふかわさん「ひとりで生きると決めたんだ」の真意』 ※外部サイトに遷移します
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提供元:「生活に支障出るほど感情移入」ふかわさんの苦悩|東洋経済オンライン