2022.02.18
「にほん昔話」から幸せの秘訣を見いだせる理由|人間の弱さや嫌な部分をあるがままに肯定する
2022年必須のテーマ「ウェルビーイング」は、あの「まんが日本昔ばなし」に描かれている(写真:miya227/GettyImages)
幸福で肉体的、精神的、社会的すべてにおいて満たされた状態を指す「ウェルビーイング」という言葉。持続可能な社会を目指すうえで重要となりつつあるキーワードですが、難解でとっつきにくいイメージを持つ人も少なくないでしょう。
しかし、実はその本質に迫るカギは、昔話をはじめとした古事記、アイドル、和歌などの日本文化に隠されていたとしたらどう思うでしょうか。
気鋭の予防医学研究者・石川善樹氏と、人気アナウンサー吉田尚記氏の共著『むかしむかし あるところにウェルビーイングがありました 日本文化から読み解く幸せのカタチ』から抜粋・再構成して紹介します。
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ウェルビーイングの研究を進めていく中で私は、数年前に絶好の素材にめぐり逢いました。それが『まんが日本昔ばなし』です。
日本各地に伝わる昔話を映像化したこの国民的名作アニメは、1975年にテレビ放送が始まり、以来、再放送や特番などさまざまな形で放送されてきました。
『まんが日本昔ばなし』を毎晩見続けてわかったこと
私が『まんが日本昔ばなし』を毎晩見る生活に突入してから数年が経ちます。
これまでに数百話を見てきてまず気づいたのは、おじいさんとおばあさんが多数登場する点です。しかも彼らには名前がない。「かぐや姫」「桃太郎」のように名前がある主人公も登場しますが、おじいさんとおばあさんは徹底して無名の存在として描かれます。実は主人公ですら名前がついてない話も意外と多い。
「誰もが知っているあの人」ではなく、「誰も知らないとなりの人」=Nobоdyの話を日本人はずっと語り継いできた。それがはっきりと浮かび上がってきます。
次に気づいたのは主人公が成長しないこと。多くの登場人物は成長も変化もせず、欲深いおじいさんは欲深いままで終わる。だから救いがない悲惨な話も多数あります。
よくよく考えると、年老いたおじいさんとおばあさんが出てくる時点で、そこから成長したり上昇したりする展開って難しいですよね?(吉田氏)
成長も変化もしないということは、弱さや嫌な部分をあるがままに肯定するということでもあります。
例えば、『火男』という話。火男は「ひょっとこ」の語源で、あのお面がどうやってできたのかという昔話なのですが、これがもう天才的に面白い。「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがいました」というお決まりの冒頭から始まるのですが、「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に、まぁ……あまり行きませんでした」と意表を突いてくる。そこから欲深なおばあさんと善良なおじいさん、火男のあれこれが展開するのですが、結末を言ってしまうと欲深なおばあさんは、欲深なまま死んでいきます。変化も成長もしない人物像の典型例のような昔話です。
ちなみに、『火男』の演出を手掛けた杉井ギサブロー監督は「放送事故では?」と不安になるほど間をたっぷり取り、強い喜怒哀楽ではなく弱い感情をほろっと描く達人で、『まんが日本昔ばなし』の中では私が最も好きな監督です。
ものごとを肯定する『日本昔ばなし』
大酒飲みの男が主人公の『酒が足らんさけ』という話も、ウェルビーイングな人生とは何かを考えさせられた一作です。
日中は山で一生懸命に働くが、日が暮れると町に出て酒を浴びるほど飲まずにはいられない。そんな男が酒で死にかける目に遭いながらも、なんだかんだでまた「おれはやっぱり毎日一升酒を飲むんじゃ!」と決意して、再び大酒飲みに戻るが結局長生きした、というお話です。
『火男』も『酒が足らんさけ』も、他人に変化を期待しない、良い悪いで相手をジャッジしない市井の人々の姿が描かれている点が共通しています。
欲深でも酒飲みでも貧乏でもものぐさでも、その人のまるごとを肯定する。そして結局最後には、また始まりと同じ場所へと戻る。日本の昔話の王道ともいえるこのパターンをひもといていくと、つねにゼロ地点へ戻りたがる日本人の民族性が見いだせる気がします。
私たちはマイナスからゼロ、ゼロからプラスへ、という上昇志向を刷り込まれながら成長し、大人になっていきます。ゼロはプラスへ向かうまでの通過点であって、プラスを積み重ねていくことにこそ人生の価値がある。無意識のうちにこんなふうに考えている人は多いでしょう。
けれども、『まんが日本昔ばなし』を見ると、日本人はいつの間にかゼロの価値を過小評価するようになったのでは、と考えてしまいます。ゼロは通過点ではなく、ゼロこそがひとつのゴールと捉えることもできるはずなのに。
『まんが日本昔ばなし』のエンディングテーマを思い出してください。「にんげんっていいな」というタイトルのあの歌は、実は動物たちの目線から見た人間たちを描いたものです。では動物たちはどこを見て「にんげんっていいな」と思っているのか? それは「ごはん」や「おふろ」、「ふとんで眠る」ことをいいなと羨んでいるのです。
確かに、あれは動物から見た「にんげんっていいな」ですね。帰る住処は動物にもあるかもしれないけど、ごはんとお風呂、ふかふかの布団は人間だけが得られる快楽です。心の状態はいったん置いておいて、身体的ウェルビーイングの本質はこの3つで十分に事足りる気がします。(吉田氏)
『まんが日本昔ばなし』には、食べ物に関係する話も非常に多く登場しています。
『あにょどんのデコンじる』のように、「働いて空腹ならなんでもうまい!」という筋ともいえないお話も残っているくらいです。
その意味で、ごはん、お風呂、布団。このシンプルな3要素は日本人にとっての「ゼロ」とも言えるウェルビーイングの原型といってもいいかもしれません。
「上昇志向」そのものがバイアスの結果?
とはいえ、もちろん「ごはん、お風呂、布団」という生理的欲求のみで生きていけるほど、今の時代は単純ではありません。それでもあえてこの原則に立ち戻ったのは、「夢や目標を持ち、志をもっと高く!」という上昇志向の発想自体が、すでにある種のバイアスがかかった考え方であると気づくきっかけにもなるからです。
今よりもっと良い人生があるはずだ。そうした思考は確かに前へと進む足がかりにはなりますが、前や上ばかりを見ているとすぐ目の前、今日一日のことを人間はおろそかにしてしまいがちです。やりたいことが見えなくてもいい。今日という日を味わって過ごし、いつでもゼロに立ち戻っていける自分を積み重ねていく日々にも、十分に価値があるということを心に留めておくとよいのではないでしょうか。
再び昔話に戻りましょう。平凡な日常が続いていくゼロ地点は、馴染み深く安心できる場所です。けれどもほんの少しだけ、何かが起きる未来への期待が欲しい。そんな心理に応える装置としての側面も、昔話にはあったのでしょう。
いつも洗濯している川の向こうから、大きな桃が流れてくるかもしれない。亀を助けたら竜宮城へ連れて行ってもらえるかもしれない。そんなふうに、日常的な風景にいろんな夢を埋め込んだ装置としての役割も、かつての昔話は果たしていたのだと考えられます。
その文脈で考えると、今の時代の夢埋め込み装置はラノベやアニメでは? 空から少女が降ってきたり、異世界に転生してまったりスローライフを送ったりといったパターンの話がウケるのも、変化のない日常に夢想を詰め込んで癒やしを提供しているからでしょうね。(吉田氏)
日本の昔話は西洋のものとどう違う?
もうひとつ、日本の昔話や落語の人気噺を見て特徴的だと思うのが、「金持ちになりました、めでたしめでたし」で終わる話が西洋に比べると少ないことです。あるにはあるのですが、それよりはほのぼのした不思議な話のほうが日本では圧倒的に多い。これは、日本人はずっと昔から金持ちになることと、ウェルビーイングな人生を送ることは、別問題だと理解していたからだと考えます。
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「ごはん、お風呂、布団」はお金で買えても、その先にある生きがいのようなものまでは買えません。そして日本の昔話のメインキャラともいうべき老人たちにとって、老い先短い人生で大金を手にしてもあまり意味がない。むしろ、何かを楽しみに待つ時間が奪われてしまうことだってあるでしょう。
年収がある水準を超えると、収入と幸福感は相関しなくなる、という研究結果が出ていることからもそれは明らかです。お金は生活に安定をもたらしますが、絶対の幸福までは約束してくれません。
だからこそ、いつの時代も人は無意識のうちに「何かを楽しみに待つ」時間を欲してきたのではないでしょうか。旅行前日の準備の時間が一番ワクワクするように、何かを楽しみに待つことは、それ自体がウェルビーイングな状態なのです。
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提供元:「にほん昔話」から幸せの秘訣を見いだせる理由|東洋経済オンライン